ここ数日、断捨離に関して書かれたものに触れる機会が多かった。
そこで目にしたのは、良寛(りょうかん)の名。
良寛(りょうかん)とは、お坊さんであり、書家であり、歌人でもあった人物なのだけれど、
教えを説いたわけではなく、何か特別なことをしたわけでもなく、
山奥の、今にも倒れてしまいそうな小さな草庵でシンプルな暮らしを送っていた。
しかし、彼のことを研究している人は意外と多く、良寛のことを綴った書籍が多数出版されている。
彼は、托鉢によって生計を立てていたのだけれど、
それ以外の時間は子どもたちと遊んで過ごしていたという。
ある日、子どもたちとかくれんぼをして遊んでいた良寛(りょうかん)は、
上手く隠れ過ぎたのか、子どもたちが、かくれんぼに飽きてしまったのか、
見つけてもらえぬまま日が沈んでしまったらしい。
そのような状況になる前に、何とかできそうなものなのだけれど、
彼は、ひと晩中その場所に隠れており、翌朝、村人に発見されるも、
子どもたちに見つかってしまうから静かにしてほしいと村人に言い、隠れ続けていたという。
他にも、家に侵入した泥棒が、寝ている良寛(りょうかん)の布団を引き剥がそうとした際には、
寝たふりをして布団を差し出したという話もある。
これらのエピソードは、子供向けの絵本などで今も触れることができるため、
記憶には残っていなくても、誰もが一度は触れたことがあるエピソードかもしれない。
私も随分と長い間、彼の名を忘れていたのだけれど、
先日、断捨離に関して書かれたものに触れた際、久しぶりに彼の名に目が留まったのだ。
そこには、彼が残した和歌や手紙などから彼の人生や生き方を紐解いていくと、
ミニマリズムを実践していたことが見えてくるという内容が記されていた。
時代が変われば、そのような見方もできるのかと思った。
そして、ふと、いくつかの事柄が頭に浮かんだ。
彼の書に触れたことがあるのだけれど、上手い下手では語ることができないような、全ての無駄を取り除いたような文字であったこと。
冒頭でも触れたけれど、彼が最後に辿り着いた住まいは、
山奥の、今にも倒れてしまいそうな小さな草庵で、全ての無駄を取り除いたシンプルな空間だったこと。
空間だけでなく、持ち物も少なったという。
当時の必須アイテムのひとつだったはずの足を洗うために使うタライには、すり鉢を代用し、
食器は、拾いものの欠けたお椀を使っていたという話も残されていたはず。
このような暮らしぶりを現代の視点で見ると、
「良寛(りょうかん)は、究極のミニマリズムではないだろうか」という話も、十分頷けるような気がした。
もちろん、この「究極の」という前置きがあってこそなのだけれども。
適量や心地良さは人それぞれであり、
その時々の状況によって感じ方や必要なものごと、ミニマリズムの在り方も様々である。
良寛(りょうかん)の名を見聞きする機会がありましたら、
彼のエピソードをチラリと思い出していただけましたら幸いです。
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