駅構内で待ち合わせをしていたときのことだ。
コインロッカー前で地図を広げ、行き先を確認している小さな子ども連れのご家族がいた。
しばらくすると、幼稚園児くらいの子どもが手足をバタバタさせたり、地団太を踏んだりしながら、「嫌だ、嫌だ」と駄々をこね始めた。
それは、何処にでもある光景で、特段何を思うでもなかったのだけれども、
子どもは、こうして感情をその都度解放することで、
心がストレスを貯めずに健康でいることができる、ということを本能で知っているのだろうと思った。
そのように感情を開放することを恥ずかしいと思うのは、本能を何処かに置いてきてしまった大人の方だ。
もちろん、全ての大人までもが、何かある度に手足をばたつかせたり、地団太を踏んで駄々をこね始めたら世の中は大変なことになってしまうため、
大人は大人らしい分別ある行動で。という一種の役割分担のようなものがあるだけのことで、良い悪いの話ではないのだけれど、
駄々をこねる子どもを視界の端で捉えながら「本能って良くできている」と思った。
そう言えば、どなただったか忘れてしまったのだけれど、ある方の著書に
気分が落ち込んでしまったときには、仰向けに寝転び、手足をバタつかせたり、髪の毛を両手で鷲掴みしたりしながら、
「もうダメだー」とか「どうすればいいのよー」とか、「もう嫌だー」というような感情を声に出すと、
思いの外、ストレス発散になるというようなことが書かれていた。
私たちは“やらなくてはいけないこと”に囲まれて過ごしているようなところがあり、
そこに、“やらない”という選択肢が入ることは少ないように思う。
心身共に常に100%の状態で走り続けることはできないのだから、
息がつまりそうになったなら、気持ちを押し殺さずに、手足をバタバタさせるくらいの余裕があっても良いように思う。
そのようなことを思ってから1週間ほどは経っていただろうか。
目の前のことから一つずつ片付けてはいたのだけれども、次から次へと現れる“やらなくてはいけないこと”に押しつぶされそうな瞬間が私に訪れた。
そして、これをタイミングが良いと言うのかは分からないけれど、駅構内で見かけた子どもを思い出したものだから、
試しに「もう、何もできない。今日はもう何もしない。」そう声に出しながらソファーにダイヴした。
本当はタイムリミットが近づいているモノゴトがあったのだけれど、「そんなこと、どうでもいい。」と思う自分を演じつつ、
天井をボーっと眺め、“やらなくてはいけないこと”を“やらない”と決め、全部放り投げて、身支度を整えて、映画を観に行こう。
その後は、最近オープンしたちょっとおしゃれなカフェをのぞきに行こう、などと計画を立てた。
しばらく、本気で計画をたてていると、じわりじわりと力がお腹の底から湧いてくるのだ。
不格好ついでに両手足もバタつかせてみた。
子どものように、しなやかにバタつかせることができず、不格好さが増した自分に少し驚いたけれど、
もう無理だ、もう嫌だ、疲れたと感じている自分のことを認めたあとは、心身から、ふっと力が抜けていた。
ここまで終わらせてから休憩しよう、というようなマイルールもアリだけれど、
認めることさえも先延ばしにされ続けていると、知らぬ間に自分に対する不満が思わぬ形で表れるのかもしれない。
あの日の駄々をこねる子どもを思い出し、自分自身に対しても誠実でありたい、と考えさせられた日だ。
少しずつ、楽しさも忙しさも増す時季でございます。
自分自身に対しての先延ばしは、ほどほどにまいりましょう。
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