冬のおしゃれは楽しい。
そう感じていたはずなのだけれども、1月も終わりに近づく頃には何だか冬の装いにも飽きてきて、春色を取り入れたい気持ちが沸々と湧いてくる。
「春の装いを」ではなく「春色を」というところが、もどかしくもあるのだけれど、このような素朴な思いを汲み取ったアイテムが店頭に並ぶのもこの頃だ。
そして、この時季はそのようなことを通して、季節をほんの少し先取りする感性は、間違いなく日本人らしい感性のひとつだと感じたりもする。
日本では、「まだ寒いけれど、もう〇月だから真冬のお洋服を着るのはちょっと……ね」という感覚を、割と多くの方が持っているように思う。
この、「割と多くの方が」というところが、興味深いのだ。
もちろん、外国の方々にもそのような感覚をお持ちの方はいらっしゃるのだけれど、
季節感というよりは、実用性重視の感覚をお持ちの方の割合が、日本よりは高いように感じるのだ。
寒ければ体が冷えない冬のお洋服を引っ張り出せばいいし、暑ければ冬でもTシャツ1枚でいいじゃない、という感覚。
先日、外出先で外国人観光客の方々とすれ違ったのだけれど、その方々はTシャツ姿であった。
確かに、春のように温かい日だったけれど、コートにストールをグルグル巻きにしていた私とは、同じ場所に居るとは思えないほどのギャップがあった。
本人が着たいものを好きなように、着たいタイミングで着ればよい。
そう思ってはいるのだけれど、その姿を目にして「寒そう」と思い、身震いが飛び出しそうになった私は、間違いなく日本の感性が強めなのだと思う。
四季がある国の暮らしが板についているのだと言ってしまえばそれまでなのだけれど、
人の感性や感覚は、持って生まれたものと身を置いている環境、それらの中で感じた諸々が混ざりあってできるもの。
何だか化学反応のようで面白く、十人十色とはよく言ったものだと思う。
世界を見渡したとき、日本人には個性がないと言われていた時代があるけれど、本当にそうだろうかと思う。
誰かを、何かを思うことによって生まれる「まとまり」の奥には、ちゃんと個性があるように思うのだ。
それを大っぴらに出すか、出さないかは個々が選ぶことであり、出すことも出さぬことも個性であるとも言えるし、出さぬことは奥ゆかしさだと言換えることもできるのでは、と。
そうでなければ、十人十色、多種多様、三者三様、千差万別といった言葉が、こんなにも多く存在できただろうか。
人は、すぐに忘れてしまう生き物だ。
誰かや何かを思って動いているうちに、本当の自分を忘れてしまうこともある。
ここへきて、個性というものへの注目が高まっているところを見ると、本来の自分や気持ちを確認した上で、あなたはどうすることを選ぶ?と、言われているのかもしれない。
そのようなことを思いながら、今の私が本当に食べたいものは何だろうとランチメニューに思いを馳せた、ある日のお昼どきである。
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