旅先で立ち寄ったお寺で素敵な法話を耳にすることがある。
法話とは、仏教に携わっている僧侶の方々が、仏教の教えに基づいた話を分かりやすく説き聞かせること。
このような説明をしてしまうと堅苦しさを感じてしまうのだけれども、
聞くところによると、予め決められた話が用意されているわけではなく、僧侶ひとり、ひとりが実際に経験した話や、世の中で起きている出来事、誰もが知っている小説や物語の中の登場人物を例に挙げて話すことが多いのだという。
もちろん、僧侶の方々もお話しするシチュエーションに相応しい内容を選ばれているとは思うけれど、この法話には、僧侶の人柄や感性、人生経験が顕著に表れるのだろうなと感じている。
初っ端から、どうしてこのような話をしているのかというと、
あんぱんの上に乗っている芥子の実を眺めていたら、いつぞやかに訪れた、旅先のお寺で聞いた法話を思い出したからである。
今回は、そのようなお話を少し。
ご興味ありましたら、お好きなお飲み物片手に、読書気分でお付き合いくださいませ。
旅先で聞いたお話というのは、このようなものでした。
あるとき、幼い男の子を亡くした女性が、亡くなった子を抱えたまま、「息子に薬を下さい」と、狂乱した様子で村中を歩き回っておりました。
女性は村中を歩き回る中、偶然にも、お釈迦様がこの村に来ていることを知ります。
そして、お釈迦様の所へ行き、幼い男の子を無くした悲しみを伝え、薬を求めます。
女性の話を聞き終えたお釈迦様は言いました。
「私が、あなたを救いましょう。その前にしていただきたいことがあります。
この村に住む方々の家を訪ね、芥子の実を一掴み集めてきて下さい。
ただ、芥子の実をいただくのは、その家の身内に不幸がなかった家からのみです。」と。
女性は、すぐに村人の家を一軒、一軒訪ねはじめました。
そして、全ての家を訪ね終えたのですが、身内に不幸を出したことがない家は一軒もなく、
女性は芥子の実を集めることができぬまま、お釈迦様の所へ戻ります。
このとき、女性の中にある男の子を無くした悲しみに変わりはなかったのだけれど、
一軒、一軒家を訪ねる中で、悲しい思いをしているのは、自分だけではないということに気が付き、女性の顔はすっきりとした表情に変わっていたというお話です。
ついていない事、悲しいこと、落ち込んでしまうようなことが起きると、
つい、自分だけがどうして?と錯覚してしまうような瞬間もあるけれど、結局のところ、大なり小なりの差はあれど、皆同じということなのだろうと思う。
全く同じことが同じように同じタイミングで起きるわけではないし、
全ての人が、自分の身に起きることや感じたことの全てをオープンにしているわけでもないため、本当の所は本人以外には分からないのだけれど、
つい、自分の偏った思い込みで自分自身を追い込んでしまうのだ。
自分にとって思わしくないと感じるようなことが起きたときほど、目の前のそれをどう見て、何を思うのか問われているのかもしれない。
そのようなことを感じた法話だったことを思い出しつつ、その日は芥子の実が乗っている、小さなあんぱんを口にした。
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