今月はラフカディオ・ハーンの誕生月だと、近所にあるカフェで知った。
他人様の名に対してこのようなモノ言いは失礼なのだけれど、初めて彼の名を耳にしたとき、どこで区切ればよいのだろうかと迷った記憶がある。
今ではラフカディオ・ハーンと区切って言うことができるけれど、当時の脳内記憶の名残だろうか。
頭の中では時々、ラフカディ・オーハンと区切ってしまうのは、ここだけの話である。
イギリス国籍の彼は後に日本国籍を取得している。
一時期、島根県の松江市に在住し英語教師をしていたことから、名を小泉八雲と名乗るようになる。
「八雲」は、出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」から取ったのだとか。
小泉八雲という名であれば、子どもの頃に触れた方や、お子さんと一緒に触れた方も多いのではないだろうか。
ラフカディオ・ハーンは、「ろくろ首」「耳なし芳一」「むじな」など、日本の怪談話を英語でまとめた『怪談』を出版している。
学生の頃、その怪談話が英語の教科書に載っていた。
初めは、日本の怪談を英語で読ませるなんて、先生たちは随分とややこしいことをするものだなと思ったのだけれど、
読みすすめてみると、英語で書かれているにも関わらず、視点や選ぶ表現が日本人より日本人らしい、そう感じるような文章で、最後は言葉の壁を越えて物語に入り込めた記憶がある。
大人になり、ふとあのとき触れた彼の感性を不思議に思ったことがあり、彼の生い立ちをのぞいてみたところ、アイルランド人の父とアラブの血が混じっているギリシャ人の母のもとに生まれていることを知った。
父母を通して、また世界中を放浪する中で、様々な文化や国民性を自然と受け入れる、人としての器が作られていたようだ。
本人も、自分の中に流れている血は西洋と東洋の血。だから、日本の文化や伝統、芸術なども繊細に感じ取ることができると言っていたのだとか。
私の中に残っていた言葉の壁を越えて物語に入り込めたというあの感覚は、彼の経験からくるものだったように思う。
それから、彼の著書を気の向くまま読んだのだけれど、私の印象に残っているのは怪談話ではなく、彼が日本に来たばかりで八雲の名を使う前のラフカディオ・ハーンの目で見て感じた日本を書き記した『日本の面影』という著書である。
※『新編・日本の面影』『日本の面影2』など
知らないはずの時代の景色が、ぱーっと目の前に広がる心地よさを感じながら、
彼の日本好き溢れる描写にくすぐったさを感じたり、失ってしまったもの、消えてしまったものから儚さを感じたり、今も受け継がれている日本のあれやこれやを再認識したり。
不思議な風が吹く著書である。
私はこれを、今日はこのタイトルだけ読もう、という感じで、その時々の気分で拾い読みするのが好みだ。
今年の梅雨は、雨音をBGMに、ラフカディオ・ハーンが書き残してくれていた、ひと昔前の日本へタイムスリップしてみるのはいかがでしょうか。
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