この時季になると、学生の頃に友人が言い放った言葉を思い出すことがある。
それは、「夏ってさ、どさくさに紛れてやってくるから嫌なんだよねぇ」というもの。
本当にその通りだと思って大きく賛同し、上手いこと言うなと感心したのだ。
確か、鎌倉にある紫陽花がきれいだと言われているお寺に行ってみようと盛り上がり、見頃を過ぎた梅雨明けの頃に行ったお寺での会話だったように思う。
紫陽花好きの私は、友人ととりとめのない話をしながら、雨露に濡れた紫陽花ももちろん好みなのだけれど、見頃を過ぎ、色が褪せはじめた紫陽花もまた、ピーク時とは異なる美しさがあって素敵だと思いながら紫陽花を眺めていた。
紫陽花の花びらは、一枚、一枚個性的な色の変化を見せながら色褪せていく。
グラデーションがあるわけでも、順番があるわけでもないけれど、不思議と調和が取れた色褪せ方をする。
「個々の個性を個々が発揮した先にも調和はある」と言われているような気もするし、「月日を重ねた先にしかない美しさもある」と言われているような気もするし……。
なかなか奥深くて観察しがいがある花である。
しかし、これも私個人の自由気ままな視点に過ぎなくて、同じ紫陽花を眺めていた友人は、こんなに色褪せちゃった紫陽花は、干乾びる前みたいで見ていられないと言った。
これだから人の感性は面白いのだ。
そして、同じものを見ていても、こうも感じることは違うのかと笑いあった出来事である。
数年前にこの時の会話を覚えているかと尋ねたら、お寺へ行ったことは覚えているけれど、「夏ってさ、どさくさに紛れてやってくるから嫌なんだよねぇ」といった記憶はないと言った。
その代わり彼女の記憶には、「柊希は見頃の紫陽花ではなく、枯れる前の干乾びた紫陽花が好きだ」という正誤が中途半端に入り混じった記憶が残っていた。
人の記憶というものは、私も含めて、まぁまぁいい加減である。
紫陽花は見頃を過ぎたこの時季も、落ち着きある色の変化で見る人を楽しませてくれています。
夏がどさくさに紛れにやってくる前に、この時季限りの梅雨の残り香を、色褪せていく紫陽花と共に味わい納め、してみてはいかがでしょうか。
暮らしの中で感じる今だけの季節を切り取って遊んでみてくださいませ。
画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/