今日はストレッチをする元気が残っていないからサボってしまえ……。
そう思いながら体を、リビングのソファーに雪崩れ込むようにして委ねた。
私の体を受け止めたときのボワンッという音と、ソファーの少しヒンヤリとする感覚が妙に心地よくて、しばらくゴロゴロと寝返りを打った。
ストイックになった先にあるご褒美も良いけれど、こういうオサボリを許した先にあるものも私にとっては、ちょっとしたご褒美である。
しばらくの間、白い天井を見上げていたのだけれど、「サボる」という言葉はフランス語のサボタージュから来ていることを思い出した。
いつだったか、何かのついでに調べて知ったことだけれど、大正時代には既に使われていたとあり、思わず、へぇーっと声が零れた。
真新しい言葉ではないけれど、そう古いとも思えない言葉だと感じていた「サボる」が、それなりに使い古されていることに驚いたのだ。
私たちは、怠けることやずる休みをすることなどを「サボる」と表現するけれど、もととなっているサボタージュという言葉は、何かを壊したり妨害したりすることを表す言葉である。
主に働く場において、働く側が雇い主に対して、仕事で使用している道具や機械を壊すなどして何かしらの主張や権利を訴えるという行為をサボタージュと呼んでいたそうだ。
そして、このフランス語のサボタージュの語源は木靴を表す「サボ」という言葉なのだとか。
サボと呼ばれるシューズがあるけれど、あの原型でもある。
サボタージュの語源にどうして木靴が?と思うけれど、当時の労働者たちは、この丈夫な木靴を履いた足で、仕事で使用している道具や機械を蹴るなどして壊していたそうだ。
想像を超える激しさを含んだ訴え方の手法である。
この言葉が、どのような経緯でやんわりとした雰囲気の「オサボリ」を表す言葉として定着したのか、この辺りは調べるに至っていないため、ここで詳細をお伝えすることはできないのだけれど、
「サボる」という言葉は、まるで牙を抜かれた虎のような言葉だと思ったりもする。
言葉も使い方ひとつである。
じんわりと忍び寄ってくる瞼の重みを感じながら、そのようなことを思った日。
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