この時季の恐怖は、彼らの休息スタイルである。
彼らというのは、夏を夏らしく盛り上げてくれる蝉たちのことで、今年も既に幾度か自宅のベランダでひっくり返っている蝉を発見した。
その豪快な見た目から、我が家のベランダで力尽きてしまったのだろうと判断して無防備に近づけば、途端に大きな鳴き声と共に羽をバタつかせて飛んでいく彼ら。
あの瞬間の恐怖といったら、こちらの寿命を若干とは言え、縮められているようにも思う。
「まだ生きていますよ」と貼り紙のひとつでもしていてくれたなら、安易に近づくことなどしないのにと思いつつ、こちらも度重なる恐怖から学んで、存分に休息をと場所を珍客に提供したつもりでいると、そのままの状態で力尽きていることも。
虫に対して苦手意識を持っている者にとってこの時季は、地味に厄介である。
そのような私のボヤキを聞いた友人が、それってセミファイナルだね、と言った。
この時季に、道端や家の軒先、玄関先などでひっくり返っている蝉を、インターネット上ではセミファイナルと呼んでいるのだそう。
何方かがSNS上で発言したこの名が拡散されたようなのだけれど、ナイスネーミングである。
そして、目の前の蝉が力尽きてひっくり返っているのか、セミファイナルとしてひっくり返っているのかを見分けるには、彼らの足に注目するといいということを知った。
もし、ひっくり返った蝉の足が開いていれば、それはセミファイナル状態でひっくり返っており、足を組んだ状態でひっくり返っていたならば、既に一生を生き抜いて力尽きた状態なのだそうだ。
私は、この見分け方さえ知っていれば、自分の寿命を縮めることなく状況を把握できると思ったのだけれど、すぐにその考えが甘かったと知ることとなった。
ひっくり返っている蝉の足の状態を確認するためには、蝉に接近しなくてはいけないのである。
これが非常に困難である。
それに、セミファイナルとしてひっくり返っている蝉は力尽きる前の状態で、大きな鳴き声と共に羽をバタつかせて飛んでいくのは、危険を察知して、なけなしの力を振り絞っているというではないか。
蝉が自分の一生を静かに振り返っているのか、それとも、もうひと飛びするための力を蓄えているのかどうかまでは分からないけれど、
安易に近づいて、最期まで怯えさせることに気がひけてしまい、数日前からはひっくり返った蝉を見つけたら、そっとしておくことを選ぶようになった。
そして翌朝、そこに蝉の姿が無ければ、もうひと飛びしたのかと、ホッとするやら誇らしいやらセンチメンタルになるやらで、何だか朝から感情が騒がしいこの頃である。
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