梅雨真っ只中だと思っていたその日、雨が止んでいる僅かな時を狙ってのことか、我が家にも今年の蝉、第一号がやってきた。
目覚めの悪い体をグイッと起こしてベッドの上でぼーっとしていると、すぐ近くで鳴く蝉の声がダイレクトに脳に届いた。
わっ、ついに夏が来た。
そう思った瞬間、体中のスイッチがカチカチカチッと入れられていくような感覚と共に完全に目が覚めた。
あまりにも近くで鳴いているものだから、ブラインドをたくし上げると、網戸に捕まっている蝉と窓越しに対面した。
起きがけに見る映像としてはインパクトが強かったけれど、その網戸には蝉の他にもトンボの珍客が、細い足を器用に網戸にひっかけて一息ついていた。
トンボの体は、緑色を出来る限り黒くしたような、黒に艶やかな緑色を混ぜ込んだような色をしており、羽は黒を限りなく薄くして彩度を上げたような透明感の表面を、ほんのりとした虹色がいた。
その美しさは、美術品にも勝るとも劣らないもので、虫が苦手な私もつい魅了されてしまった。
トンボにはご先祖様が乗っているとか、ご先祖様たちが姿を変えたものだとか、神様の使いだ、ご先祖様の使いだなど、様々な言い伝えがある。
特に、お盆の時季に見られるトンボは、このような言い伝えを持つものが多く、子孫の幸せと秋の収穫を守っていることを伝えて山へ帰っていくという話がある。
他にも先人たちがトンボを大切にしていたことが分かる言葉に「あきつ」というものがある。
これは、トンボを表す古い言葉で「あきつ」以外にも「あきづ」「秋津」などと記されたりもするのだけれど、古い和歌の中では、羽衣のような透き通った着物を表現する際に、トンボの美しい羽根と重ね合わせて「あきつは」という言葉が使われていたりもする。
トンボという言葉との接点が無いように思う「あきつ」という響きだけれど、「あきつ」という言葉そのものは秋の虫という意味があると知ると合点がいくのではないだろうか。
いつも外国での話題を持ち出してしまうけれど、ヨーロッパでは、虫の鳴き声を聞いて季節を感じたり、風情を感じるといったことは少なく、どちらかと言えば虫の鳴き声は雑音の一種として捉えられる節がある。
これは、その土地の気候や生活環境、時代背景、その他諸々が合わさって出来上がった文化がそうだというだけのことなのだけれど、ある日、知り合いのお宅の少年が小さな嘘をついたことがあったのだ。
すると、私の知り合いは、嘘をついた子どもに言ったのだ。
「嘘をつくと悪魔の針を持ったトンボがやってきて、その嘘をついた口を縫い合わせてしまうわよ」と。
横で聞いていた私は、脳内の直訳が間違っているのではないかと思い、何度も知り合いの言葉を脳内再生した後、ヨーロッパでトンボは、そのような立ち位置なのだと知ったのだ。
昆虫は吉凶のどちらの象徴としてもみられるため、これも驚くようなことではない。
しかし、日本人が昆虫に対して優しい眼差しを向けられるのは、蝉の鳴き声を聞けば夏の訪れを、トンボを目にするようになれば晩夏や初秋を感じ、鈴虫の音色を耳にすれば本格的な秋を、といった具合に季節の移り変わりを知らせてくれる存在として、共に過ごしてきたであるように思う。
どちらが良い悪いではないのだけれど、私自身は、自然の美しさに触れ、虫の存在を大切に扱い共存してきた先人たちの感性を誇りに思う。
そのようなことを思っていると、ザーッという音とともに再び激しい雨が降りだし、雨粒が外の景色をぼかし始めた。
鳴くのを止めた立派な蝉とスタイリッシュなフォルムのトンボに、夏を知らせにきてくれたお礼の気持ちを込めてささやかな軒下を貸し出して寝室を出た。
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