この時計も、こちらの時計も止まっている。
ジュエリーボックスを覗き込み、時計の健康診断とも言えるオーバーホールに出さなくてはと思いながら、数カ月が経過しているそれらを取り出しショップへ向かった。
どの時計も、年を重ねる中での節目、節目に私の手元にやってきたもの。
このような扱いになってしまっており説得力は無いように思うけれど、とても気に入っているし、大切にしているものだ。
最近では、時を経た分の味わいも増しており、私にとってのアンティークと呼べるくらいにまで育ったのではないかと思っている。
アンティークと言えば、英国やヨーロッパの国々が本場だと言われている。
週末になれば、至る所で骨董市が開かれており、少々口が悪いけれど、出品してある品物はガラクタからお宝までピンキリであった。
ただ、そのピンキリの世界を通して眺める、目には見えないストーリーや誰かにとってのガラクタがお宝になる瞬間はとても興味深くて楽しくて、特に予定が入っていないような休日は、飲み物片手にふらり、散策を楽しんだりもした。
当時、アンティークとは何を基準にしてそう呼ばれるのだろうかと疑問に感じ、どこかの店主に尋ねたことがあった。
返ってきた答えは、「買うのか?買わないのか?買わないのならあっちへ行って」というような内容のもので、店主の雰囲気とは随分と異なる残念な物言いだったものだから、尋ねる人を間違えたと思った私は買わないことを伝えてその場を去ったように記憶している。
自分の期待通りに物事が進まないことや、互いのタイミングが合わないことは時折起こることだけれど、このような扱いを受ける度に、日本のお客様対応のクオリティの高さに心静かに感動していたことも今ではいい思い出である。
その後、アンティークと呼ばれるものに正式な定義は存在していないということを知った。
アンティークは、そのものが経てきた時間、使われている技術、今は手に入らないもの、世界的に価値があるものなどを、そのように呼ぶ条件に挙げられることがあるけれど、
実際には定義そのものが曖昧で無いに等しいいため、自分自身の自由な感性を使って、自分が感じる、自分だけのアンティークを自由に楽しむものなのだという。
だから、誰かにとってのガラクタが他の誰かにとってのお宝になる、というドラマが生まれるのである。
オーバーホールの手続き待ちをしていると、時計の歴史を綴った読み物が置いてあった。
パラパラと目を通すと、最初に発明された時計は日時計であることが記されていた。
そして、私たちが使っている時計が右回りなのは、太陽の動きによって伸びる影が左から右へと移動する北半球に、日時計を利用していた文明が多くあったことと、時計の研究が北半球で進み進化したためだと記されていた。
時計の針が、時を戻すかのように左回りに動く様子はイレギュラーに映るけれど、左回りの時計を使っていた可能性もゼロではないことを思うと、常識とはなんと危ういものかと思う。
そのようなことを思っている間に手続きは完了し、ショップを後にした。
そして、この日は、また別のアンティークに思いを馳せる日となった。
そのお話はまたいつか、機会がありました折にでも。
本日も、素敵な時間をお過ごしくださいませ。
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