我が家のベランダには大小様々な鳥が遊びに来る。
特段、鳥に好かれるようなベランダではないと思うのだけれど、彼らは、お喋りの場として、追いかけっこの場、かくれんぼの場、止まり木代わりの休憩場として利用していくのだ。
何処へ引越をしても同じことが起こるため、
私が好む間取りやベランダの方角がそうさせるのか、寛ぎスペースのレイアウトがそうさせるのか、何かしらの理由がありそうなのだけれど、見つけられずにいる。
そう言えば、実家の庭にも度々鳥たちが羽を休めに来ていた。
あまりにも色々な種類の鳥が遊びにくるため、自宅のリビングには、いつからか小さな望遠鏡と野鳥図鑑が置かれるようになった。
そして、鳥が遊びにくると家の中から小さな望遠鏡でのぞき、野鳥図鑑を広げて鳥の名を調べるのである。
てっきり、通りすがりの鳥たちだと思っていたのだけれど、父が亡くなった後はパタリと来なくなったことから、母は、鳥たちは父に会いに来ていたのかもしれないと冗談交じりに言っていた。
最近、その時の会話を思い出し、父の何かを私が引き継いでいるのだろうかと遊びに来た小鳥を眺めながら思ったけれど、その真意もまた見つけられぬままである。
その日もガーデンテーブルの上でお喋りをしている鳥たちがいたのだけれど、本を虫干ししたくて室内から外の様子を窺っていた。
7月は虫干しに適した時期だけれど、中国には7月になると書物を開いて虫干しをする風習があったそうで、ここから7月を「書物(文)を開く月」と表現し、後に文月(ふみづき)という7月の異名が生まれたという説がある。
これに倣ってということではないのだけれど、その日の晴れ間を逃したくない気持ちが勝り、数冊の本を手にベランダへ出た。
がしかし、である。
飛び立ってしまうだろうという私の予想に反して、彼らは私の存在を気にする様子も飛び立つ素振りも見せず、しばらく談笑し続けたのだ。
鳥の中には、鳩のように縄張り争いを繰り広げなければならない相手もいるけれど、そうでないならば、しばしの間だけ空間を共有するくらいは良いだろうと思いながら本を広げ置いて室内に戻ったけれど、自分の存在感の薄さと彼らの厳しいであろう日常を案じたひとコマである。
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