その日は、朝から雨がぱらついていた。
ベランダに出ると雨の匂いと適度な湿度が感じられた。
見上げた空にはグレー色を帯びた雲が広がっており、その雲は「ここからは、ひと雨降る毎に秋が深まっていく」ということを知らせるサインのようにも見えた。
しばらくの間、これ幸いと曇り空の下で軽めの日光浴を楽しんでいると、東側の空に広がる雲の隙間から太陽光が差し込み、ベランダの床にガーデンテーブルの影が伸びた。
随分と過ごしやすくなったけれど、うっかり日焼けで妙な焼け跡を肌に残してしまわぬよう、室内へと戻った。
遅く起きた日のブランチに選んだのはホットケーキである。
たまには、甘いブランチも悪くないだろう。
冷蔵庫や冷凍庫内を覗き込み、添えるソースには冷凍フルーツを使うことにした。
そういえば、今は亡き私の恩師であり友人でもあったフランス人女性の自宅に泊まらせていただいたときにも、2人でブランチにとホットケーキを焼いたことがある。
彼女は美味しい料理を作るのだけれど、その手順はいつも豪快で大雑把で、私はそんな彼女にいつも驚かされていた。
しかし、今思えば、あの豪快かつ大雑把な言動に、慣れない土地で暮らすことに対する緊張を、ほぐしてもらっていたのかもしれない。
いや……、豪快すぎて、そこに付いていくのに必死で、緊張する間なんて無かったとも言えるのだけれど。
とにかく、彼女と過ごす時間は穏やかな時間というよりは、毎度とてもスパイシーな楽しい時間だったように思う。
あの時は、確か、私が持参したメイドインジャパンのホットケーキミックスを使うことにしたのだ。
実家の母が送ってくれたものだったのか、日本食品を扱うお店で見かけて恋しくなり自分で購入したものか、もう記憶も曖昧だけれども、私が持っていたものである。
彼女は、こういった初めてのものに興味津々で、まずはパッケージに書いてある日本語を指さし、ここには何と書いてあるの?と尋ねてくるのである。
私が言葉に詰まると、これも練習だからと言って英語やフランス語の辞書を手渡してくれるのだけれど、その辞書の中身はもちろん全て英語やフランス語で記されている。
ここは、師という立場の彼女から私への愛ある指導なのだけれど、これがなかなかハードな時間であった。
あの時である。
ホットケーキという呼び名が通じないことを知ったのは。
私にとって子どもの頃から慣れ親しんでいるホットケーキはホットケーキでしかなく、ホットケーキミックスはホットケーキミックスでしかないのだけれど、本来、ホットケーキとパンケーキは概ね同じものである。
しかし、日本では、この二つに緩やかな線引きがあるのだ。
ホットケーキはデザートで食べられることが多いため、生地にはお砂糖が加えられており、生地そのものに甘みを持たせ厚めに焼きあげる。
一方のパンケーキは食事として食べられることもあるため、生地にはお砂糖は使われておらず甘さを控え目で、ホットケーキよりは薄く焼きあげて、合わせる食材やソースで如何様にもアレンジができるように作られている。
当時の私は、短時間でここまでの情報を得ることが出来なかったのだけれど、少し格好をつけてしまい、日本人は細かく分類しているのだと説明したように思う。
あの日から、随分と年月が経ってしまった。
今の私であれば、彼女の素朴な疑問に対して、あの時よりも、もう少しはマシな答えを返すことができるのに。
ホットケーキミックスを使ったホットケーキの美味しさと手軽さの虜になった彼女のことを思い出しながら食べた、この日のブランチは、少しばかり懐かしい味がした。
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