子どもの頃に戻りたいとは思わないけれど、
今の私に、あの頃の時間があったなら、
今トライしたいと思っていることを片っ端からやって退けられるのに、と思うことがある。
大人になれば、自分の力である程度のことはトライできるようになるけれど、
今度は限りある時間によって
子どもの頃とは異なるもどかしさを突きつけられることもある。
それはまるでゲームのようでもあり、
目の前に現れる不自由や限りの中で、どれだけ羽ばたけるかしら?
もしくは、それらを、どのようなアイデアで自由や無限に変えられるかしら?
と言われているようにも見える。
そのような事を思っていると、夏休みを満喫している風の子どもたちが、
少し重たそうにプールバッグを手に目の前を歩いていた。
すると、その中にいた女の子が「ハニーちゃんの名前はキラキラネームって言うんだって」と言った。
そう言われたハニーちゃん(らしき子)は、「キラキラネームってなあに?」と返した。
女の子は「知らないけど、ママが言ってた」と答えた。
ハニーちゃんは「私も、おうちでママに聞いてみる」と言い、
女の子は「うん」と天真爛漫な笑顔を向けていた。
無邪気な子どもたちの平和な光景を前に、私が勝手に抱いた余計なお世話なのだけれど、
何ごとも起こりませんように。私は心の中でそのようなことを思った。
ただ、読みにくく珍しい名前を一般的にキラキラネームと呼ぶことがあるけれど、
このような事は現代に始まったことではないのだ。
学生の頃、恩師に本居宣長の著書『玉勝間(たまかつま)』をすすめられたことがあった。
しかし、当時の私は彼の著書よりも他に心奪われることが多々あり、
玉勝間には全く興味がわかなかったのだ。
だけれども、どのような事が書かれているのかザックリと知っておきたいという欲があり、
恩師に、どのような事が記されているのか質問攻めにしたことがある。
「お前、自分で読む気ないだろう」と、
私の目論見はあっさりと見破られてしまったのだけれど、
恩師は私を門前払いすることなく、内容を掻い摘んで話してくれていた。
玉勝間は今で言うエッセイのようなもので、様々な事柄に触れているのだけれど、
その中で著者の本居宣長は、「最近は読みにくい名前が多くて困る」と嘆いているのだ。
そして、このような「読みにくく珍しい名前」に関する出来事は、
平安時代にも江戸時代にもあったという。
その日の私は、無邪気な子どもたちのやり取りを前に、
ほんの少しだけ複雑な感情が湧きあがったけれど、
本居宣長の嘆きを思い出し、
現代のキラキラネームも今に特化したことではなく
時代は巡っていると見ることも出来るのかもしれないと思ったりもした。
時代がどうであろうと、名を授けられた本人が気に入っているのであれば、
周りがとやかく言うことではないのだけれど。
勝手なおせっかいを心の中で巡らせた、ある日の出来事だ。