幸せのレシピ集

cawaiiとみんなでつくる幸せのレシピ集。皆様の毎日に幸せや歓びや感動が溢れますように。

伝えたいことは先に言うべきか、それとも最後に言うべきか。

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伝えたいことは先に言うべきか、それとも最後に言うべきか。

先日、そのようなことを話している方々がいた。

ビジネスシーンの多くでは、結論は先にと良く言われているように、話をよりスムースに進めるための手段のひとつではある。

他にも、集中力に乏しい子ども相手に話すときには、子どもの集中力が切れてしまう前に大切なことをシンプルに伝えておく方が、お互いの意思疎通がスムースにいったりもする。

ただ、あらゆる全てのシーンにおいて、先か後かと単純に決められるようなものでもないため、最終的に、その時々のシチュエーションや相手との関係性に合った方法で伝えるのがベスト、というような曖昧な答えに着地する。

白黒はっきりとさせたい気質の方がそのようなことを言われると、もやもやとする答えではあるのだけれど、モノゴトの中にはほんの少しの歪さのようなものが紛れているように思う。

伝え方には、男性脳や女性脳、性格や置かれてきた環境などによっても変わってくるのだけれど、そこには各々の心模様が刻まれていることもあるようだ。

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以前、ご実家がお寺だという方と仕事をご一緒したとき、このようなお話を教えていただいた。

ご実家が、大切な方を御見送りする場所でもあるため、子どもの頃から自宅の玄関先には、亡き大切な方との思い出話をご住職に聞いてもらおうと、多くの方が訪れていたのだそう。

そのような光景はお寺に住んでいるものとしては、日常的な風景だったそうなのだけれども、ご住職があるとき、あの方はもう大丈夫だと言ったのだとか。

知人はご住職のその意味が分からず、何の気なしに大丈夫だとはどういう意味かと尋ねると、亡き方との思い出を話すとき、2つのパターンがあるのだそうだ。

旅立った亡き方の死を受け入れられていない間は、あんなことやこんなことがあったと、思い出話をしたあとに、亡くなってしまったと締め括り、

旅立った亡き方の死を受け入れ、前を向いて歩いていくためのスタートラインに立てたとき、人は亡くなってしまったけれどと言ってから、思い出話を続ける傾向にあるのだそうだ。

このようなお話を聴いて感慨深いものがあったと同時に、大切な人を見送る経験が少なかった当時の私は、どこか俯瞰しているところもあったように思う。

それから、様々な場面に居合わせたり、経験したり、触れたりする中で、改めてこのとき聴いたお話を思い出し、深く腑に落ちたのだ。

このような場面で、「結論から先に言って下さい」と、野暮な物言いをする人はいないだろうけれど、伝えたいことは先に言うべきか、それとも最後に言うべきかの答えは、やはりひとつではない。

そう思うようになった。

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遠い日に聴いた、このような話を思い出したのだけれど、

当時しでかしてしまった失敗までも思い出し、

穴があったら入りたいと思う自分を「気にしないで大丈夫!」と強く励ました日。

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短冊に恋文をしたためて。

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そろそろ七夕の準備をと思い立ち、笹の予約をフラワーショップに入れた。

長すぎたり、大きすぎたりすると地味に扱いにくく、後片付けも少々面倒。

あれやこれやと楽しみたいけれど、そのようなことも脳裏を過ってしまうものだから、事前に希望を伝え、ベストな状態に整えられたものを持ち帰るスタイルに落ちついている。

「ザ・七夕祭り」というような派手なことはしないのだけれど、笹に吊り下げた短冊や、少しずつ満ち始めた月を眺めつつお酒でも、そのような予定である。

笹だ、短冊だと頑張らなくても、上空の織姫と彦星の逢瀬に思いを馳せてみたり、自分が今一番望んでいることをチラリと覗くだけでも十分、七夕気分を楽しむことができると思っているのだけれど、今年の私は、笹だ短冊だと楽しみたい気分のようだ。

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私が短冊に使うのは、折り紙を三等分にカットしたもの。

今では短冊にするか、和柄模様のものを箸袋にするかくらいの用途でしか使う機会がない折り紙だけれど、

海外では日本語発音の「ORIGAMI」で通じるアイテムで、日本人だと分かるや否や「何か作って」と度々言われた記憶がある。

僕にも、私にも、子どもの分も欲しいと言われて、何度も何度も鶴を折らされる状況に、「いい加減開放して欲しい」と思ったこともあったけれど、

折り紙を持ち合わせていなくても、その場にある紙切れやペーパータオルなどを使って簡単に作ることができる上に喜んでもらえるアイテムが折り紙だった。

中でも、綺麗な和柄模様の折り紙で作った鶴などは、ジャパニーズフェスティバルで売り物にされることもあった。

私から見れば、これを売っていいのだろうか?と罪悪感にも似た感覚を覚えたこともあったけれど、彼らの目には、正方形の紙が、みるみるうちに鶴だ、チューリップだ、飛行機だと変身していく様は魔法のようで、非常に興味深く映るのだと言う。

想像するに、私たちがバルーンアートでプードルやお花を目の前で作ってもらったときに感じる高揚感に似たものを、彼らも感じているのではないだろうか。

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ただ、ORIGAMIは自他ともに認める日本が誇る文化のひとつだけれど、発祥や起源は不明で「日本のものである」とは言えないのだとか。

それでも日本では古より「紙は神様に通じている」と言われているし、紙と共に暮らしてきたことを思うと、当たらずといえども遠からず、そのようにも思う。

神様に通じているという色紙で作った短冊に、今年はどのような願いをしたためようか。

何だか恋文を神様に出すような気分だ。

そのようなことを思う午後である。

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その問いかけは、現実が詰まり過ぎていて反則である。

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自宅近くに、新鮮な魚介類を数多く取り扱っている鮮魚店がある。

定番のものから旬を迎えたもの、時折目にする見慣れない魚などがズラリと並んでいるものだから、覘いたら最後、その日の夕食は魚メニューで決まりとなる。

何となく立ち寄ってしまうと、幸せな悲鳴を上げてしまうことになるため、お魚を欲しているときに意を決して足を踏み入れることにしている場所である。

その日も新鮮な魚介類を求めて立ち寄った。

これからナイトバーベキューでもと思ってしまうほどの、期待を裏切らない品揃えを前に、今夜の気分は?と脳内会議が始まった。

そして、ご飯もお酒も楽しめそうな鮮魚を選び終え、その場を立ち去ろうと振り向いた時である。

小砂利が敷き詰められ、岩場に見立てて配置されたであろう大きめの石が印象的な水槽が視界に飛び込んできた。

水槽内には小砂利が浸かるほどの水が張られ、フェイクグリーンも配置されており、熱帯魚が優雅に泳いでいてもおかしくないような出来栄えだったのだけれど、入れられていたのは熱帯魚ではなくサワガニだった。

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サワガニは、きれいな水が流れる自然豊かな場所に住むカニだと聞いたことがある。

人が自然を人間にとって都合よく整備したことにより随分と数が減ったと聞くけれど、天然なのか養殖なのか、居るところには居るのだなと思った。

サワガニと言えば、唐揚げや寒露煮、パスタや天ぷらにと様々なメニューで美味しくいただくことができる食材としても人気。

そして、そこは新鮮な魚介類を扱う鮮魚店内ということもあり、食材として水槽に入れられていたのだけれど、水槽横に貼られた紙には、『唐揚げやペットにどうぞ』と書かれていた。

言いたいことは分かる。

間違ったことが書かれている訳ではない。

しかし、何だろうか、この胸の奥が静かにザワザワする感覚は。

思わず、水槽の中を元気に歩き回っているサワガニをじーっと眺めてしまった。

すると、「唐揚げ用ですか?ペット用ですか?」と声をかけられ、ザワザワの正体が分かったような気がした。

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分かっているつもりではいるのだけれど、普段は忘れているのだ、命をいただいているということを。

正直なところ、四六時中そのようなことを考えていたのでは、生きていけない現実もあるけれど、既にカゴに入れていた魚介を見て、ありがたく美味しく残さずいただこうと思った。

それにしても、「唐揚げ用ですか?ペット用ですか?」という問いは現実が詰まりすぎていて、反則である。

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小豆にこっそり耳打ちを。

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日本には、災厄除けとされてきた小豆の赤色を取り入れるため、月初めの1日と15日にお赤飯を食す風習がある。

これは月の満ち欠けに合わせて決められていたと言い、15日は満ちた状態を表している満月を祝う意味もあったという。

日本で受け継がれている風習をのぞくと四六時中災厄除けだ、魔除けだと言っているような気がすることがあるけれど、自分自身のことや大切な人のことを思いながら1日、1日を大切に過ごしてきた名残りでもあるのだろうと思う。

現代人がそのようなことを全く考えていないという訳ではないけれど、考えることや意識が向かう先が多々あるだけでなく、次から次に現れる時代に身を置いていると、

意識や気持ちも分散され、このような風習ばかりに気を取られている暇はない、と感じてもおかしくはないようにも思う。

ただ、時折このような風習をのぞくと“シンプルな何か”に気付かされることもあり、なかなか楽しいじゃないかと思ったりもする。

気休めやおまじないと見るか、楽しくて美味しいイベントと見るか、その選択が各々に委ねられているところが現代人の特権のようにも思う。

 

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そして、1年の後半に突入する本日も月初めであり、お赤飯を食して災厄除けでもいかがかしら?という日なのだけれど、

あずきバーでお馴染みの井村屋が、7月1日を「あずきの日」と制定し、日本記念日協会がこれを認定したため、7月1日は新旧の想いが融合したような日でもあるようだ。

昨日触れた夏越の大祓とハーフタイムデーが融合した6月30日の流れとも少し、似ているようにも思う。

扱い方や切り取り方、触れ方や楽しみ方は時代に合ったものに変化していくけれど、日本人が大切に思うことというのは、いつもシンプルである。

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小豆と言えば、大納言小豆と呼ばれるものがある。

小豆の中でも粒が大きいものがそう呼ばれており、大納言小豆と呼ばれるものの中には、北海道産のもの、丹波産のものなど異なる品種があり、自分好みの大納言小豆を探すのも面白い。

小豆は古くから縁起物として大切に扱われていたけれど、この粒が大きい大納言小豆は特に縁起が良い小豆として人気が高かったと言われている。

理由は切腹しなくて済むというゲン担ぎだったのとか。

名前の一部にもなっている「大納言」は役職名なのだけれど、とても位が高く、切腹とは無縁の役職だったという。

更に、大納言小豆は通常の小豆と比べると煮崩れしにくく、皮がパックリと割れてしまうことも少ないという特徴から、

「大納言小豆の腹はパックリと割れることが無い=切腹とは無縁である」と結び付けられるようになったことも人気の理由なのだそう。

諸説あると言われているけれど、今のところはこのような話が、大納言小豆が縁起物だと言われる所以である。

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切腹とは無縁の時代を生きる私たちからすれば、小豆の赤色の災厄・魔除けの方が、身近なものに感じられるけれど、

小豆を美味しくいただきながら新しいひと月を、2019年の後半を無事に過ごすことができるよう、ちらり願ってみるのも楽しいのではないだろうか。

お嫌いでなければ小豆メニューを堪能しつつ、災厄除けや魔除けを小豆にこっそり耳打ちしてみてはいかがでしょうか。

小豆はちょっぴり苦手なのという方は、記事中に登場している小豆画像に耳打ちを是非。

本日もココロしなやかに、楽しんでまいりましょ☆彡

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“米粒たわわ”にスポットライトを。

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実際のところは分からないけれど雨があがった後の空気は、空気の汚れが雨で洗い流されたかのようで清々しい。

車が車道をビュンビュンと走り抜けていく様子は、普段と何ら変わりないというのに、歩道を歩きながら深呼吸をしてしまうほどだから、

やはり、気の持ち方ひとつで見える景色や感じられる景色は随分と変わるのだろう。

まだ蒸発していない雨粒を乗せた木々の葉をチラ見しながら目的地へ向かう途中、“米粒たわわ”を発見し6月もそろそろ終わりか……と思った。

“米粒たわわ”とは私が心の中で勝手に呼んでいるこの時季の南天のことだ。

南天と聞いて思い浮かべるのは「南天のど飴」だろうか。

それとも、秋から冬に人目を惹く鮮やかな赤色をした実だろうか。

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他にも「難を転じて福となす」に通ずとされ縁起物として古くから愛され、災厄・魔除け、招福の木として知られているため、そのようなことを思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれない。

ただ、やはりそこには赤い実のイメージがくっつきやすいため、秋冬のイメージが強いように思う。

しかし南天は、5月から6月ごろに可愛らしい白い花を咲かせる植物である。

あまりにも密やかに咲くため印象に残りにくいのだけれど、よく見てみると小さくて米粒のような白い蕾をつけ、これがパッと開き、中から小さくて繊細な黄色い雄しべを見せてくれるのだ。

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この時季を過ぎると黄緑色をした実ができ、季節の変化と共にゆっくりと時間をかけて赤く染まり、私たちが知る、あの南天となる。

もしも南天を夏休みの自由研究の題材として扱ってもらえたならば、書き綴る内容に困らない植物のように思うのだけれど、

変化の時季が非常に中途半端だということや、色鮮やかな花が次々に開花する時季に米粒サイズの蕾と花という控えめさから、人々から注目されるタイミングを逃している植物であるように思う。

日本人の暮らしを長い間、見守り続けている木ということもあり、いつの間にか空気のような存在と化してしまった南天だけれど、この時季の米粒たわわ化した姿も必見だ。

道すがら、白い米粒が揺れているようなものが視界に飛び込んできた際には「もしかして、柊希が言っていた“米粒たわわ”か!?」と初夏の南天にスポットライトを当てていただけましたら幸いです。

いつもの景色にあなた色を自由に添えてカラフルな毎日を。

本日も、素敵な1日になりますように☆彡

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いつの間にか今年も夏越の大祓。

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今年もいつの間にか、夏越の大祓(なごしのおおはらえ)の日であり、ハーフタイムデーでもある6月30日がやってきた。

1年をふたつに分ける古からの考え方でこの日を見ると、12月の末日(大晦日)と同じ、前半の末日(大晦日)である。

年末の大晦日が新年を迎えるための大切な日として扱われ、「年越しの大祓(としこしのおおはらえ)」と呼ばれる行事が執り行われるのと同じように、

6月30日も、1年の前半に起きた様々なことに対して神様に感謝し、半年間の穢れをきれいさっぱり落として後半の無病息災を祈る祓いの日と考えられており、こちらは夏越の大祓(なごしのおおはらえ)と呼ばれ区別されている。

大祓の行事は、もともと宮中行事だったものが一般へと広がったもので、神社によっては茅の輪くぐりや人形流し(ひとがたながし)と呼ばれるものが行われている。

(※茅の輪くぐりや人形流し(ひとがたながし)にしては過去記事内でも触れているので今回は割愛致します。)

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この茅の輪くぐりは、日本神話がもとになっていると言われている。

子どもの頃にヤマタノオロチの話を聞いたり読んだりしたことがある方もいらっしゃるかと思うのだけれど、茅の輪くぐりのもとになっている話は、あのヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトが登場する、もうひとつの話だ。

旅をしていたスサノオノミコトは、道中、宿泊先を探していたという。

運よく民家を見つけ泊めてもらえないかと頼んだのだそう。

まずお願いしたのは、裕福な暮らしをしている家の主人だ。

しかし、この家の主人にはあっさりと断られたため、改めて別の家の主人に泊めて欲しいと頼むと、この家の主人は、貧しくて厳しい暮らしをしているにも関わらず、スサノオノミコトの頼みを聞き入れ、できる限りのおもてなしをしたのだそう。

実は宿泊を断られた家の主人は、泊めてくれた家の主人の弟だったのだとか。

このような出来事が起きた数年後、泊めてくれた家に再びスサノオノミコトが訪ねてきて、主人(兄)に、こう伝えたのだそう。

「これから先、疫病が流行った時には茅で輪を作ったものを腰に吊るしておくように。そうすれば病にかからずに済むから」と。

しばらくして町で疫病が流行ったため、兄はスサノオノミコトが教えてくれたとおり、茅の輪を腰に吊るして過ごしていたところ疫病にかかることなく過ごせたのだけれど、

スサノオノミコトの頼みを断った弟は、茅の輪のことを知らぬまま疫病に侵され命を落としたそうだ。

この話が宮中行事に取り入れられ、時代を経る中で茅の輪のサイズも少しずつ大きくなり、いつの間にか現在のような、人が楽々とくぐることができるほどの大きさになったと言われている。

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そして、こちらはいつからこのように呼ばれるようになったのか分からないのだけれど、ここ最近、6月30日になるとハーフタイムデーというワードを見聞きする機会が増えている。

こちらも夏越の大祓と大差はなく、今年1年の前半が終わる日で折り返し地点でもあることから、

過ごしてきた前半を振り返りながら、年初めに掲げた目標を思い返したり、目標を再設定するなど、今年の後半をより有意義に過ごすための節目の日とされている。

ハーフタイムデーだからといって特別行事のようなものがあるわけでは無いのだけれど、

ほっと一息つきながら、各々が気持ち新たに前を向くきっかけにすることが、行事のようなものといったところなのではないだろうか。

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あっという間に半分も過ぎたのかと思う気持ちもあるけれど、まだまだ半分も残っているぞと思う気持ちも同じくらい。

人はいつだって、何度だってスタートをきることが出来るのだから、

ツイていた人もツイていなかったと感じていた人も、この機会にもう一度、気持ち新たに踏み出してみるのもいいのではないだろうか。

私も新しい一歩のために前半最終日の夜は、とっておきの一杯を堪能しよう……、そのようなことを思っている。

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王の品格をまとう花。

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夏の空気感や日差し、空の青にも負けないマゼンタピンク色の艶やかさは、色の方からヒトの視界に飛び込んでくるような感覚を覚えることがある。

その日は、牡丹なのか芍薬なのか区別がつかなかったけれど、通りかかった建物のエントランス脇に作られている花壇に咲いていた、マゼンタピンク色をした素敵な花が目に留まった。

牡丹も芍薬も春から梅雨前辺りに花を咲かせるのだけれど、花の色や咲き姿が似ており、慣れていないと区別し難い花である。

それもそのはず、牡丹も芍薬もボタン属の植物とのことだから、植物界では親戚のような関係だ。

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牡丹と芍薬の名を挙げましたけれど、今回は牡丹の扉の奥にある様々な世界をちらりのぞき見。

そのように思っております。

ご興味ありましたら、ご一緒に牡丹旅などいかがでしょうか。

牡丹の花はそのゴージャスな美しさから古より和歌に詠まれたり、絵画のモチーフにされたりと、多くの人を魅了してきた花なのですが、意外にも、日本には漢方薬として伝わってきたと言われています。

もともと中国生まれの植物で根の部分は、止血剤や鎮痛薬、炎症を抑える薬として使われていたのだとか。

だから戦国時代の日本でも、戦時の負傷に備えて多くの牡丹が植えられていたといいます。

しかし、あの美しさ、華やかさ、艶やかさを持った花ですからね、人々を魅了するのに時間はかからなかったようで、鑑賞用としても愛されるようになったという話が残っている花です。

そのことを伝えているかのように、牡丹が日本に伝わってきた頃から歌人たちの和歌に度々登場します。

他にも、皆さんご存知の日本を代表する浮世絵師・葛飾北斎。

彼も晩年、牡丹の花を作品に描き残しています。

それが、花札の絵柄「牡丹に蝶」です。

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「牡丹に蝶」という名の花札の絵柄は、花札の中でも華やかさが抜きん出ており、花札を知らなくても、どこかでこの絵柄を見たことがあるという方も多いのではないでしょうか。

牡丹と同じく華やかで艶やかな花は多数ありますけれど、それと同時に堂々とした印象を与える花はそう多くはないように思います。

それが理由になっているのかどうか、その辺りは分からないのですが、牡丹は「百華の王(百花王とも)」と言う異名を持っています。

しかも一つではなく、花王、富貴花(富貴草)、花神など「王」を連想させる、存在感溢れる異名を多数持っているのです。

確かに、漢方薬としてのみ使うには勿体ない美しさですから、観賞用としての用途に特化した流れにも頷くことができる気がします。

牡丹は他にも様々な世界をのぞくことができる花なのですが、その辺りはまた機会がありましたときにでも……。

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牡丹の時季はそろそろ終わりを迎えておりますので、運よく見る機会がありました際には存分にご堪能下さいませ。

そして、今季の牡丹を見逃してしまった方も大丈夫です。

品種によっては秋頃に咲く牡丹もありますので、秋の牡丹をお楽しみに。

何かしたの形で牡丹に触れる機会がありました際には、今回のお話をちらりと思い出していただけましたら幸いです。

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宝の持ち腐れにならない程度に新旧の様々を混ぜ合わせ。

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開け放った窓から電車が走る音が聞こえた。

普段は聞こえないはずの音が近くにあるように聞こえるときというのは、雨が降るサインだと言われている。

これは雨を降らせる低気圧が運んできた空気によって普段とは異なる層が上空にでき、この空気の板のような層に普段は聞こえないはずの音がぶつかり、

それが跳ね返るようにして地上の広範囲に広がるため、普段は聞こえないはずの音が聞こえるのだとか。

開け放った窓から電車が走る音が聞こえてから数時間ほど経ってからだろうか、窓の外から聞こえるBGMが優しい雨音に変わったのは。

先人たちが遺した季節を表す言葉やことわざの中には、天気を知る方法も含まれている。

現代のような精度の高さは無かったかもしれないけれど、日常で使うには十分だったのではないかと思う。

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先日、このような話を耳にした。

時々見聞きする話題なのだけれど、現代人は、口にする食べ物の鮮度を自分の五感で判断することが苦手になりつつあるのだとか。

多くの食品に記されている賞味期限や消費期限を答えとしているため、自分がどう感じたのかという基準での判断に、大なり小なりストレスを感じるようなのだ。

ざっくりとしたものではあるけれど、自分の五感を使って感じ取り、判断できていたはずのことなのに、何を感じているのか分からなかったり、感じたことに自信を持てないという。

天気予報も、これに似ているように思う。

時代の流れというものもあるのだから、こうなってしまうことがダメだということではないけれど、このようなとき、先人たちの、暮らしの中に寄り添うような形で散りばめられたあれやこれやは、

指南書のようにも見えるし、暮らしを豊かに楽しむためのちょっとしたヒントのようにも見える。

予め用意されている答えを最短ルートで手にして進む道も悪くはないけれど、五感を使って多くを感じ、眺めゆく道も良いものである。

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私たちの手中には、宝ものがいっぱい。

宝の持ち腐れにならない程度に、新旧の様々を自分の塩梅で融合されられたなら。

そのようなことを思った、ある日の雨音である。

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料金に含まれている、あれやこれやをもう一度。

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個性的な筆字で「料金表」と書いてあるボードを見上げ、料金を確認しながら、いつぞやかに聞いた話を思い出した。

それは、料金というものは、お金をいただく側が決める金額だという話である。

分かりきっていることなのだけれど、そのとき、なるほどと腑に落ちたのだ。

当時、法事で休暇を取っていた仕事仲間が休暇明け、「お布施」と書いてお金を包むことがあるけれど、どうして「お布施」なんだと思う?と尋ねてきたことがあった。

それはお経をあげていただいたときにお渡しする「お布施」のことかと聞くと、そうだと言った。

はてさて……。

そう書き記すものだということ以外考えたことが無かった私は、改めてそう尋ねられたものの、ハッキリとした答えを返すことができず、それがルールだから?というような内容の言葉を返したように思う。

すると、彼女もその時の法事に出席するまで「そういうもの」という認識しかなかったと言った。

しかし、年齢的にも社会人としての立場的にも、新人と言えば大目に見てもらえる年齢の域を出ており、周りからは知っていて当たり前という目で見られる妙齢に差し掛かっていたものだから、「どうして?」という疑問が湧いたという。

法要を終え、お寺の隅で素朴な疑問を姉妹で話していると、偶然それを拾い聞いたお寺の方が、教えてくださったそうだ。

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「お布施」は、あげていただいたお経に対して包むお金なのでお経料という表現があってもおかしくないように思うけれど、

「料」という字には、「ものごとをはかる」という意味も含まれているため、「お経料」と記してしまうと、お坊さんがあげてくださったお経に対して、あなたのお経は、これだけの金額相当のお経でしたよ」と言っていることになるのだとか。

知らずに書き記していたとしたら冷や汗レベルの上から目線である。

もしくは、お経をあげていただく前に「お経料」と書き記して包んだお金をお渡ししていた場合、「この包んだ金額相当分のお経をあげてくださいね」という意味に取ることもできるのだとか。

もちろん、知らずに書いてお渡ししてしまったとしても、お寺の方やお坊さんから意地悪をされるようなことはないのだろうけれど、「料金」と書き記すものに対しては、このような意味が含まれているという。

だから、「料金」というものは、お金をお支払いする側の立場の者ではなく、お金を受け取る側の立場の者が決める金額だというのだ。

昨今、あげていただくお経に対しては、予め金額が決められていることが多いと思うのだけれど、気持ちを包むという意味で「お布施」と書き記すようだ。

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こうした説明を聞くと、しっかりと腑に落ちるからなのか勝手なもので、何となくそうだろうなと感じていたような気にもなるのだけれど、

不意に「どうして?」と尋ねられるとき、答えを持っていない自分に気付かされることがある。

既に持っているものに気付かないこともあるけれど、持っていないことに気付かないこともあるなんて、人って不思議である。

そのようなことを思い散らかしながら、料金表を確認し、お目当てのコッペパンを購入した日。

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今シーズンはじめての水浴びと共に行うボディメンテナンス。

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今シーズン初めての水浴びを。

水浴びをしたのは私ではなく、我が家の観葉植物たちだ。

水やりをサボったわけではないのだけれど、元気がない……。

そう感じてから1週間ほど経過した。

普段よりも多めに水をあげてみたものの、時期でもないのに葉が落ち、枝にくっついている葉もシワシワになった。

そこで初めて、植物全体に水が行き渡っていないのだと気が付く始末である。

頼りない相棒で申し訳ないと呟きつつ、観葉植物たちの脱水症状を改善すべく、大きくて重い鉢植え2つをバスルームへと運んだ。

シャワーヘッドから出る冷たい水を雨に見立てて観葉植物たちに浴びせると、葉の上で弾む水音が、観葉植物たちの喜びの音色のように聞こえて、私まで楽しくなった。

しゃがみ込んで葉の裏側からもしっかりと丁寧に水を浴びせることも忘れない。

自然の中では味わえないであろうこのサービスは、本来外で生きるべき植物を私の勝手で室内に閉じ込めてしまったお詫びを兼ねていたりする。

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冷水シャワーは観葉植物だけでなく、私たちにとってもなかなか魅力的な健康法である。

半身浴などの湯船に浸かって体を温めることによって脂肪を燃焼させるダイエット法のようなものがあるけれど、

その入浴中に冷水シャワーを浴びると、体質を脂肪燃焼しやすいものに変える手助けになるという。

これは、冬になると寒さや冷えから体を守るために脂肪を燃焼させて体温を維持しようとする機能を人工的に発動させるようなイメージだ。

他にも、入浴中に血の巡りが良くなり体温が上がった状態を保つために、お風呂から出る直前に足先に冷水シャワーを当てて刺激し、

上がった体温をお風呂上りも保つことによって、その日の疲れをゆっくりじっくり取り除くことができるとも言われている。

あとは、冷たいシャワーを浴びることで分泌されるホルモン物質があるそうなのだけれど、これは免疫力を上げる手助けをしてくれるのだとか。

私の記憶に残っているのはこのくらいだけれど、冷水シャワーが持つ効果は他にも多々あったように思う。

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そのようなことを思い出しつつ、鉢の中に張り巡らされた根の隅々にまで水分を行き渡らせていると、先ほどまでのクッタリシワシワしていた、植物がシャキッと葉を伸ばし、息を吹き返した。

冷水シャワーのチカラ恐るべし、だ。

最近、何となく体がグッタリしているように感じている私ももしかして。

水やり後、レモンウォーターをゴクゴクと体に流し込むと、想像以上に浸み込んでいくものだから2杯目に手を伸ばした。

季節の変わり目は、体からのサインに気付きにくいようでございます。

体内とお肌の健やかさのために、そろそろ水分補給を意識してみてはいかがでしょうか。

そして、お風呂上りに足先に冷水シャワーを当てて、その日の疲れはその日のうちに取り除いて下さいませ。

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