学生の頃、マニアックな趣味をもった友人に囲まれていたのだけれど、その中に無類の漱石好きがいた。
文豪、夏目漱石好きだと聞けば本好きなのだろうというイメージを抱いてしまうけれど
彼女は頑なに「違う」と言っていた。
そして、漱石好きになったきっかけは、確かに彼の作品だったけれど、彼の逸話を見聞きするようになってからは、
どのような思考回路の人物が、どのような思いで作品の登場人物たちにこのようなことを語らせているのだろうか、という所に深い興味を抱いたのだと話していた。
作品の内容はあまり覚えていないと笑う彼女だったけれど、彼女が自身の推理も交えながら漱石のことを語るとき、
自分が世に送り出した作品をこれ程までに愛してもらえたら漱石も本望だろうに、と感じることが多々あった。
彼女は覚えていないなどと笑っていたけれど、本当は穴が開くほど彼の作品を読んでいるに違いないと私は思っていた。
あの頃から漱石の名に触れる時、多感な時を共に過ごした彼女のことを頭の隅に思い出す。
どうして突然、このような話なのかと言うとカレンダーを眺めていてハッとしたからだ。
2月21日は夏目漱石の日なのだ。
彼女から何度も聞かされたおかげで家族の誕生日並みに私の記憶にインプットされている。
ただ、この日は漱石の誕生日ではなく、当時の文部省が漱石に文学博士の称号を送ると伝えたところ、
「自分に肩書きは必要ない」と言って手紙でこの称号を辞退した、その辞退の日なのだとか。
そのような日が記念日のような扱いを受けていることにも驚いたけれど、
どのような時代であれ、人の斜め上を行く人物の切り返しはキレがいいのだなと思う。
漱石は、作中で造語や当て字を生み出して遊んでおり、言葉遊びのセンスにも長けていたことでも有名である。
例えば、私たちが当たり前のように使っている
「沢山(たくさん)」「浪漫(ろまん)」という言葉も彼の言葉遊びだと言われている。
ただ、博士の称号を辞退するような人だ。
自分がオリジナルで作った言葉だ、といった説明や記述を一切残していないため、本当に漱石が作った造語だ、当て字だと証明ができないのだそう。
ここまで想定していたとしたら、今頃どこかでニンマリとしているに違いない。
そして、ここ数年、ドラマなどの台詞でも登場する機会が多い、男性が女性に対して言う「月がきれいですね」には「I love you」の意味があるという話があるけれど、実はこれも漱石のエピソードだと言われている。
漱石は英語にも長けていたため作家だけではなく英語教師もしていたそうで、あるとき生徒が「I love you」を「我は君を愛す」と訳したそうなのです。
これに対して漱石は、「日本人であれば、月がきれいですねと言えば気持ちは伝わる」と言ったとか、言っていないとか。
こちらも証拠となるようなものは残っておらず、今は漱石はそのような事は言っていないのではないか、と言われている。
それでも、ドラマの台詞として使われてしまうのは言葉が持つ生命力なのではないだろうか。
ただ、証拠はなくとも、このように様々な言葉やエピソードが漱石の名と共に残っているということは、
漱石と言う人物は、様々な言葉を楽しく、時に艶やかに育て扱うことのできる作家であり、そのことを認めている人も大勢いたのだろう。
わたくし個人としては、そのような風に感じ、思っている。
文豪などと頭に付けたら漱石の手によって赤線か何かで削除されてしまいそうですが、
夏目漱石の名に触れる機会がありましたら、今回のお話を頭の片隅でチラリと思い出していただけましたら幸いです。
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