「かっちゃん、それ触っちゃダメ」若いお母さんが慌てたように言い放った。
その声につられるようにして、その声の先を見てしまったのだけれども、
小さな男の子がつま先立ちで、
自分の背丈よりも高い場所を目指すようにして、右腕をぎゅーっと伸ばしていた。
伸ばされた手は、人差し指だけがピンッと伸ばされていて、
指の先には火災報知器のボタンがあった。
押したらどうなるかなんてことには一切興味がなくて、
ただただ、ボタンをギュイッと押したい衝動のまま突き進めるお年頃。
少しだけ、羨ましくもある。
そのような事を思いながら、友人を待つ傍ら、少しだけ親子を眺めていた。
どうして、そのボタンを押してはいけないのか。
お母さんが丁寧に説明しているのだけれど、
私の目には、少年が次のチャンスを伺っているように見えた。
そう言えば、ショッピングモールか、デパートか、はたまた駅の構内だっただろうか。
場所は忘れてしまったのだけれども、ある時、母が化粧室に入った。
外で待っていると化粧室の中から警報音が鳴り響き、
女性たちが外へ小走りにでてきたのだ。
その緊張感のある音に私の心臓がぎゅっと強張った。
外へ出てくる女性たちの中に母の姿を確認し、
何があったのか尋ねたけれど急に警報音が鳴りだしたため、慌てて出てきたという。
女性たちと入れ替わるようにして警備員たちが数名、化粧室内に駆け込んでいく様子を確認し、
状況を気にしつつも私たちは、その場を離れた。
喫茶店に入り、落ち着いたところで話題はもちろん警報音のことだ。
ひと通り、想像出来得ることを話し終えたあと、母が言ったのだ。
「トイレの横に妙なボタンがあったから押したけれど、それは、水のボタンじゃなかったの。
あれって、なんのボタンだったと思う?」と。
何だか嫌な予感がした。
「水のボタンじゃないボタンを押したらどうなった?」と尋ねると、
「警報音が鳴りだしたから、間違えて押したボタンの確認どころではなかったのよ」
と答えながらコーヒーを口に運び、
「このコーヒー美味しいわね」と嬉しそうに言う母を眺め、
あの警報音を鳴らしたのは間違いなく母だと私は確信した。
「母上、美味しいコーヒーをお召し上がりのところ、大変残念なお知らせなのですが……、
さっきの警報音は、その水のボタンじゃないボタンを押したせいだと思うんだけど。」
「え?私なの?どうしよう。」
そう言いながら、目の前であたふたする母を眺めたことがあったな、
と懐かしいことを思い出したりもして。
ボタンは、人を誘うのがお上手です。
そのボタン、押す前に一度ご確認を。