冬と春の狭間を行きつ戻りつ過ごす日々は、
人が成長する少し前の状態にも似ているように思う。
新しい環境を望んでいるのに、新しい何かに気付くことができたのに、
心と体のタイミングが噛み合わず、進みたいのに名残惜しい。そのような矛盾を胸に、
慣れ親しんだ場所から一歩踏み出すことを躊躇っているかのようだ。
まだ手放せない首元のストールをギュッと掴みながら、季節の狭間の中、目的地を目指した。
年末から楽しんでいたダージリンの茶葉が底をつきかけており、
何か新しい、今の気分に合う茶葉はないだろうかと、
いくつかのお店を覘いてみたのだけれど、その日は空振りに終わった。
帰り道、時々立ち寄るパン屋の前を一度は通り過ぎたのだけれども、
何となく「あ、パン」そう思った私は、数十秒後にはパン屋の店内に居た。
香ばしい小麦の香りに癒されながら私が足を止めたのはヴィクトリアケーキの前だった。
ヴィクトリアケーキというのは、イギリスの伝統菓子のひとつで、
正式にはヴィクトリア・サンドウィッチ・ケーキと呼ばれており、
アフタヌーンティーの時に用意するケーキの定番だ。
スポンジは、小麦粉とお砂糖にバター、卵とほんの少しの水分を加えて焼き上げた
とてもシンプルなもの。
スポンジという表現を使っているけれど、生地の食感はパウンドケーキに近く、食べ応えがある。
薄めに焼き上げたそれを2枚用意し、生地と生地の間にラズベリージャムを挟んで、
上部には真っ白い粉砂糖を振りかけるだけの素朴なケーキだ。
ケーキの名に、ヴィクトリア女王の名前が付けられているのには理由がある。
ヴィクトリア女王の最愛の夫は40代前半という若さで他界してしまう。
夫婦仲が良かった女王の悲しみは周りが想像する以上に深いもので、
夫を失った彼女は、そのショックから人の目を避けるようにして喪服で過ごしていたのだそう。
そのような彼女を心配した周囲が、なんとか女王を元気にしたいという気持ちから
ティーパーティーを開くことを提案したという。
この時に初めてテーブルに出されたケーキが、ヴィクトリア・サンドウィッチ・ケーキだったのだ。
女王の心を癒した素朴で温かみのあるケーキは、一般家庭にも広がり、
今では様々なアレンジが施され、挟むものもラズベリージャムに限らず、
マーマレードやその他のジャム、レモンカード、生クリームやフルーツなど
様々なものが挟まれており、多くの人に親しまれている。
私が英国に居たとき、ご年配の方々と接する機会も多かったのだけれども、
あるティーパーティーにお呼ばれした際に、
現代風のヴィクトリア・サンドウィッチ・ケーキを持参したことがあった。
ケーキの歴史を知らなかった私は、
見た目も華やかで、可愛らしくて、その場が華やぐだろうと思って選んだように記憶している。
その時のティーパーティーで初めて、
クラシカルなヴィクトリア・サンドウィッチ・ケーキというものがあり、
私が目にしているものは現代風にアレンジされたものだということを知った。
それからは、クラシカルな味に興味が沸き、
古き良きヴィクトリア・サンドウィッチ・ケーキを見つける度に試食していた。
その日、思いもよらずクラシカルなラズベリージャムを挟んだだけのそれに出会った私は、
懐かしさから、そのシンプルなケーキを買って帰り、
まだ残っていたダージリンの茶葉でミルクティーを淹れて味わった。
華やかなものも人の心を癒し、豊かにしてくれるけれど、
本当に心が疲れたとき、人の心にそっと寄り添えるのは、
これくらい素朴な味と人の温かさなのかもしれない。