ふらりと立ち寄った呉服屋さん。
着物や帯、反物など素敵なものが多数並べられていたけれど、やはりこの時季の目玉は浴衣。
目移りしてしまうほどの浴衣が、多数取り揃えられていた。
買い足す予定は無いのだけれど、自分好みの反物を見つけ、
これで浴衣を仕立てたら素敵だろうなと頭の中で想像するのも楽しいものだ。
お店の奥に広がる畳敷の部屋では、先客が鏡の前で反物を体に巻きつけながら、店主と仕立ての相談中。
この店に来ると、店主の動き回る所作が美しく思わず目で追ってしまう。
反物を手にしたまま、そのようなことを思っていると、
着物姿が板についている店主が襖を開けて、関係者以外立ち入り禁止の、更に奥の部屋へ入っていった。
襖の前に座り、引き手に軽く手をかけて数センチほど襖を開けた。
次は、ひき手にかけていた手を、開けた隙間に差し入れて、
襖の縁をなぞるようにしてスッと程よい位置まで降ろしたら、
その状態で襖を中央まで開け、手をかえて残りを開けた。
言葉にすると段階が多いように感じられるけれど、
襖は、店主の慣れた手つきによって素早く、お作法である三手で開けられた。
こういったお作法が体に馴染んでいる姿は美しく、
不思議と、「こうしなければいけない」とか「こうすべき」といった窮屈さを見ている人に感じさせないのだ。
そう言えば、いつだっただろうか。
随分と前のことなのだけれど、宿泊した旅館の女将さんとの会話の中に、
外国の方が宿泊されたときのエピソードを聞く機会があった。
その方々は、日本も畳も初めての経験だったそうなのだけれども、
部屋を仕切る襖に鍵が付いていないことを非常に不思議に思われていたというのだ。
確かに、西洋のお屋敷は、各部屋に鍵が付いているけれど、
日本家屋は、各部屋に鍵が付いている訳ではない。
これは、日本がとても安全な場所で、皆が安心して暮らしてきた名残でもある。
先日の名刺の話題でも触れたけれど、
日本は島国なので、他民族から侵略されるかもしれないという不安がない上に、
各々がとても狭い社会で生活しており、顔をひと目見れば、どこの誰なのかが分かったため、
各部屋に鍵を付けようと思う人がいなかったのだ。
全くゼロだった訳ではないのだろうけれど、金品を盗まれるという心配がなかったのだ。
とは言え、プライバシーは?と思ってしまうけれど、
そのプライバシーに配慮するために、襖を開ける際のお作法が生まれたと言われている。
何も言わず、気配もさせず、いきなり襖をエイッと開けたのでは、
部屋の中に居る人は、おちおち寛いでもいられない。
だから、ひとつひとつの動作に時間をかけ、数段階の手間を踏むことで、
部屋の中に居る人に自分の存在に気付いてもらい、
身なりを整えるなり、身の回りを整えるなりする間を与えているのだ。
それが初対面であっても、慣れ合いの間柄であっても
部屋にも心にも、土足で不躾に入らない、上がり込まない、立ち入らない。
入る際には、思いやりと相手への敬意を持って。
というような、見えないやり取りが自然とできる環境だったのだろう。
ふと、今の自分がそのような環境に身を置いたなら、心底寛ぐことはできるのだろうかと考える。
風通しが良すぎるそれを想像してソワソワする私は、紛れもなく現代人なのだと思う。
お作法のその奥を覘くと、お作法のマニアックな楽しみ方とでも言うべきか、
世界を少しだけ普段とは異なる視点から垣間見ることができたりもする。
本当に大切なことほどモノゴトの奥の方に、そっとしまわれている。
店を出ると雨が上がり、遠くに薄桃色の夕焼けが広がっていた。
心地よくて穏やかな夕暮れだった。
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