学生時代の恩師たちが弾け飛んでいる写真が出てきた。
多分、卒業式の後に行われたパーティー会場で撮った1枚だと思うのだけれど、仮装して歌う姿に思わず笑ってしまった。
恩師たちはこの時、いくつだったのだろうか。
指を数本折り曲げたところで、野暮なことは止めようと折り曲げた指を一斉に開いた。
その中の一人は面白い視点を持った方だった。
もう記憶が薄れかけている学生時代のことなので、どこへ行った時のことだったか忘れてしまったのだけれど、
資料館だったのか美術館だったのか、社会科見学か何かで訪れたことがあった。
そこに展示されていたものは、歴史的に名を残しているらしい方々の書であった。
立派なことや時代を揺るがすようなことが書いてあったのかもしれないし、当時書かれたものがきれいな状態で保存してあること自体に価値があることだったのかもしれないのだけれど、
当時の私にとってその場所は、正直、心躍らぬ空間だったのだ。
そのような私の様子を察知した恩師は私に、これを書いた人は神経質で、こっちを書いた人は大らかな人だったのではないだろうか、という内容のことを話してきた。
そして、筆跡鑑定などに使われるチェックポイントを使うと、目の前の書を書いた人の人物像を想像して楽しむことができるという話をしてくれたのだ。
もちろん、プロが使う様な本格的なチェックポイントではなく、あくまでもそのような傾向にある、
それを書いたときには、そのような精神状態にあった可能性が高いという程度のものなのだけれど、
今思い返してみると、心躍らないものごとも、少し視点を変えるだけで楽しむことができ、
新しい世界がパッと目の前に広がることもあるのだということを感じた出来事のひとつだったように思う。
あれから随分と年月は過ぎたけれど、その間に偶然にも、筆跡から見ることができる諸々に触れる機会もあった。
そして、博物館や美術館などで「誰々が書いた手紙」というようなものを見ると、内容よりも筆者の人物像へ興味を抱いてしまう私がいる。
美術館側からすれば見て欲しいポイントから大幅にズレているのだろうけれど、答えも感じ取ることも、気付くことも一つではないのだから、多分、これはこれでいいのだろうと思うことにしている。
そう言えば、昨年足を運んだ場所で古い書を目にする機会があった。
その書には二重線が多々引いてあり、誤字が多い印象を受けた。
時々、書き慣れているはずの文字や自分の住所を書き損じてしまうことがあるけれど、私たちの脳は同じ文字を何度も書いていると、その文字を記号のように感じて混乱し、脳内の混乱が書き損じという状態で現れるのだそうだ。
他にも同じ文字を出来るだけ早く書き続けていると、似たような他の文字を勝手に書いてしまうことがあるそうなのだけれど、
これも、同じ文字を何度も書くことで脳は「あれ?他にも似たような文字があるけれど……」という混乱を起こし、誤字を引き出すという。
手書きをする機会も随分と減ってしまっておりますが、手書きの中には面白い発見が隠れているように思います。
文字を間違えてしまったり、誤字を見つけてしまったときには、脳が混乱していたのかしら?というような優しい視点で対処してみてはいかがでしょうか。
関連記事:
画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/