お昼が過ぎた頃、窓の外からラジオ体操のメロディーが耳に届いた。
子どもの頃、あれほど頻繁に耳にしていたのに、いつからだろう。
すっかり縁遠いメロディーになっていしまっている。
その証拠に、あのメロディーに乗せて体を動かしてみようとしたのだけれど、私の体は動きだす気配がかない。
あぁ、脳内の記憶だけでなく感覚的な記憶までもが、ザルの目から少しずつ零れ落ちる砂のように消えていってしまったのだな、と思った。
いつだったか、ラジオ体操は随分と古くから存在している体操だけれども、テレビもネットもないような時代に、どのようにして日本中の人々に伝えられたのだろうかと思ったことがあった。
ラジオ体操と言うくらいだから、ラジオで広がったのだろうけれど、あれだけの動作をラジオを使って一方的に説明するのは容易なことではないと。
そう思いはしたものの、それを深堀りすることはなく随分と年月が経ち、そのようなことを思ったことも忘れた頃だ。
テレビだったのかネット上だったのか忘れてしまったけれど、その真相を知る機会があった。
その広め方というのは、日本中の郵便局員さんたちが、ラジオ体操の動きが描かれたものを持って各地で講習会を開き、少しずつ広めていくというもの。
伝達することはできても、広めて定着させるまでには、どれほどの時間を要したのだろうかと、新たな疑問も湧いたけれど、地道な活動はしっかりと実を結んだようである。
しかし、ラジオ体操にも危機が訪れたのだそう。
戦後、あのマッカーサーには、大勢の日本人が同じメロディーや掛け声を聞いて同じ動作を行う光景が、軍事的な脅威として映ったようで、ラジオ体操を強く批判したというのだ。
これによって、一時はラジオ体操が日本から姿を消しかけたのだけれど、こっそりとラジオ体操を続けていた人たちがおり、現在に至るという話であった。
まさかラジオ体操の歴史から、同じものを見ているのに、立場や時代、ものの見方、見え方ひとつで、こんなにも感じることが違うのかと感じるなんてと、違う驚きを感じた話題でもあった。
私の中から消えてしまったラジオ体操の記憶と感覚は、今ならまだギリギリ取り戻せるだろうか。
そのようなことを思い、動画を見ながらこっそりおさらい中なのだけれど、現在の出来栄えは、マリオネットレベルである。
一度失ったものを再び手に入れるのは容易ではない、そのようなことを思うこの頃だ。
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