歩道の吹き溜まりで、真っ赤な落ち葉が乾いた音を響かせながらクルクルと回っていた。
美しい艶を帯びた赤色の正体を知りたくて辺りを見回すと、赤く染まった葉をつけた桜の木があった。
桜のイメージと言えば、開花時の桜色、初夏の緑色、いつの間にか葉が散り終えた裸木のイメージで占められていたのだけれど、この時季は艶やかな赤に色づくのかと、遅れ馳せながら知った桜の新しい一面にどきりとした。
色が無くなる冬を前にして、最後の力を振り絞るかのような力強さを含んだ赤は、見ているこちらの背筋がすーっと伸びる美しさでもあった。
美しさと言えば、先日、とても素敵なダイヤモンドを見る機会があった。
ダイヤモンドと言っても鑑定書が付くようなダイヤモンドではなかったけれど、原石にしかない輝きと魅力があり、吸い込まれるように見入ってしまった。
ダイヤモンドは本来、簡単に彫り出せるような位置ではないほどの地中奥深くにある地層の中で、炭素同士が偶然くっついてできたものだ。
そしてこれが、火山が噴火したときに地上付近まで押し上げられたことで人に発見され、採掘され続けている。
私たちが目にしたり手にしたりしているダイヤモンドは、35憶年から9億年ほど前までに地球で生まれたものだというから、ダイヤモンドは、私たちが想像する以上に貴重なもので、「神々の涙」と呼ばれることがあることにも頷くことができるのだけれど、
近年、技術の進歩によって、見ただけでは天然ものと区別できないような人工ダイヤモンドが登場した。
そのニュースを耳にした時、私自身は、リーズナブルにあの輝きを手にできることに対して複雑な気持ちを抱いてしまったのだけれど、
あれはきっと、美しさと共にダイヤモンドが持つロマンのようなものにも少なからず魅了されているからなのだろうと思った。
それからそう日を開けず、今度は、火葬後の遺灰や遺骨から抽出した炭素を使って合成ダイヤモンドを作る、通称・メモリアルダイヤモンドというものがあると耳にした。
メモリアルダイヤモンドを作ることで、故人や故ペットの一部を手元に置いたり、身に着けることができるため、故人や故ペットの家族の心の支えとなるのだそう。
どのようなことにも本人にしか、近しい人にしか分からないことや想いがあるため、そうすることで残された人が心穏やかに前を向くことができるなら、そのような選択も選択肢のひとつだと思うけれど、私自身はどうするだろうかと、ふと思った。
もちろん、送られる側、送る側の両方の立場で、である。
自分がこの世を去った後にダイヤモンドに変身できるとしたら、悪い気はしないように思うけれど、何処にも誰にも縛られずに居たいと思ってしまうだろうから、近しい大切な人のことも縛りたくはないと思うのではないだろうかと、今のところは思っている。
ただ、少しだけ。本当に少しだけ「ダイヤモンドに変身」というフレーズにワクワクしたのはここだけの話である。
美しさの奥に秘められたるものの尊さを感じたような日。
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