今年はタオルケットを新調しようと春先から決めていた。
出来るだけワクワクを楽しみたくて、ネットで片っ端から物色した。
色々と眺めているうちにタオルケットではなくガーゼケットなるものに興味が湧き、試してみることにした。
ガーゼケットと一口に言っても素材や構造は様々で、暇を見つけては物色する日が続いた。
数ある商品の中からコレだと思うものを選んだ。
世の中が大変な時期だったけれど、注文から1週間ほどで届いたことに感謝するやら、感心するやらしながら封を開けた。
そして、仲間入りしたばかりのそれから不要なものを取り除くため、はやる気持ちを抑え込み洗濯をした。
洗う前のシャリッとした硬めのハリを持つ生地質感に変化は起きず、ガーゼケットとはこのようなものなのかと思った。
正直なことを言えば、もっとフワッとしたしなやかさを期待していたものだから、期待外れだったと思いかけていたのだけれど、使う前からそう思うのが嫌で、そう思う一歩手前のところで私の想像違いだったのだと、気持ちを切り替えた。
それから10日ほどが経ち、硬めの生地質感にも慣れつつあった頃である。
急に、あのシャリッとした生地質感が絶妙な肌触りの、しなやかな生地質感に変わったのである。
何事だろうかと、思わず何度もガーゼケットを抱きしめ直して感触を確かめた。
人をダメにするクッションというものがあるけれど、人をダメにするガーゼケットといった肌触りである。
それからというもの、私はそのガーゼケットの虜で、就寝時だけでなく、クーラーが効きまくっているリビングで寛ぐ折にも、そばに置いて包まっている。
注文前に素材や構造などにも目を通したけれど、どうして、こんなにも心地よい肌触りをしているのだろうかと、改めてガーゼケットを観察した。
間違いなくプロの技やプロによる拘りや手のかけ方などが合わさってのことなのだけれど、心地良さの要因のひとつは、肌に付かず離れずの程よい距離感を常にキープする構造ではないかと素人ながらに思った。
適度な距離感を互いにキープし続ける大切さは、それなりに理解しているつもりだけれど、これは思いのほか難しいものである。
それを、これほどにもサラリとやってのけるとは、このガーゼケット、強者だ。
ソファでガーゼケットに包まって、そのようなことを思い巡らせていたのだけれど、このガーゼケットもはじめは想像違いだったことを思い出した。
しかし、今は至福タイムのお供として全幅の信頼を置いている。
はじめから馴染み合うこともあるけれど、そうではないことも多々あって。
だから、諦めず、焦らず、ゆっくりと距離を縮めたり取ったりすることを繰り返す中で、付かず離れずの絶妙な距離感が出来上がり、気が付けば馴染み合っていたなんてところに着地する。
もちろん、全てがそのような場所に辿り着くことができるという保証はないのだけれど、物にも人にもそれなりの時間は必要なのだろう。
私とガーゼケットの関係は、どこまで親密な間柄に育つのか。
関係が始まったばかりの夏の相棒に包まりながら、そのようなことを思う穏やかな午後である。
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