幸せのレシピ集

cawaiiとみんなでつくる幸せのレシピ集。皆様の毎日に幸せや歓びや感動が溢れますように。

歌舞伎は一所。

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偶然立ち寄ったアンテナショップ内で、隈取(くまどり)をモチーフにしたキャンディーを見つけた。

隈取(くまどり)とは、歌舞伎で使われているお化粧のことで、顔を白く塗った上から、赤、青、茶、黒といった色を使ってデザインされているのだけれど、

隈取(くまどり)は単なるデザインではなく、このお化粧を見るだけでも、その人物が物語の中でどのような役割なのか、どのような感情を抱いているのかが分かるようになっているのだ。

「単なるデザイン」というような表現を使ってしまったけれど、デザインそのものも優れているため、様々な商品アイデアに使われていたりもする。

その日私が見つけた、金太郎飴をカットしたような隈取(くまどり)キャンディーなどは、手頃な価格で日本らしさを持ち帰ることができるため、外国人観光客からの人気も高いのではないだろうかと想像したりする。

私自身、非常にベタではあるのだけれど、この手のキャンディーを幾度となく贈り物に利用させていただいたのだけれど、

繊細さとダイナミックさを兼ね備えた隈取(くまどり)に興味を抱く方、面白がる方が多かったように思う。

歌舞伎と聞いて私が思い出すことの一つに、「一所懸命(いっしょけんめい)」という言葉がある。

よく「一生懸命(いっしょうけんめい)」と「一所懸命(いっしょけんめい)」の違いは何か、どちらが正しいのか、といった話を見聞きするのだけれど、この言葉からも少しだけ歌舞伎に触れることができるのだ。

今回は、そのようなお話をと思っております。

ご興味ありましたら、ちらりとのぞいていって下さいませ。

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「一生懸命」と「一所懸命」はどちらも間違ってはいないのですが、新聞や雑誌などでは「一生懸命」に統一していることが多いので、迷ったときには「一生懸命」を使うと良いかと思います。

ただ、本来の意味としてどちらも同じなのかと言えば、違いがあります。

もともと「一所懸命」は、武士がご褒美などで頂いた土地や領土を命懸けで守ることを意味していたと言います。

頂いた土地や領土である、その一か所(=自分の領地)に対しての想いが込められているので「一所懸命」だったのだそう。

これが時代を経る中で、様々なものごとに対して命を懸けて、力の限り、と言った意味合いが含まれるようなり「一所」だけでなく「一生」という使い分けのようなものが生まれ、両方の言葉が同じ様な意味で使われ始めたのだとか。

このような状況を思えば、最初から存在していた「一所懸命」が正しく、後に生まれた「一生懸命」は間違いという認識も理解できるのですが、

「一所」よりも「一生」の方が表現したい気持ちを伝えやすい、分かり易い、感覚として理解できるなどと感じて使う人が増えたことから、

間違いだった「一生懸命」が市民権を得て、現在は「一生懸命(いっしょうけんめい)」がメイン使いされているようです。

ただ、例外もあり、歌舞伎の世界では「一所懸命」が使われていると言います。

歌舞伎好きの知人の話によると、歌舞伎世界では先祖代々受け継いできた屋号を守り続けていくという使命があります。

このことが、一か所を命を懸けて守り続けていくことに重なることから、歌舞伎世界では「一所懸命(いっしょけんめい)」が使われているようです。

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この言葉を万人に対して使いたいのであれば「一生懸命」を使い、

命懸けで、自分の一生をかけてという思いを表現するために使う場合は「一生懸命」を、

一カ所を守りぬくという思いを表現したいのであれば「一所懸命」を使う、

と覚えておくと、使い分けや正誤で迷うことはないのではないかと思います。

歌舞伎役者の方々のご挨拶などの中で「一所懸命」を耳にする機会がありました際には、そこに込められている立場や思いにも触れてみてはいかがでしょうか。

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思考の数珠繋ぎから辿り着いた付箋紙使い。

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スマートフォンを操作しながら、何だかこれ、人の体に似ているなと思った。

私のスマートフォン、外側はツヤツヤのピッカピカなのだけれど、日々、酷使していることもあり消耗するのが非常に早い。

だから毎回、外側と内側のギャップに戸惑いつつ機種変更をしに行くことになるのだ。

何度か見極めを誤り、突然スマートフォンが使えなくなるという非常事態が起きた。

普段は、スマートフォンが無くても何となるだろうと思っているのだけれど、非常事態で実感したのは、現実はそうではないということと、簡単には手放すことができないほどの相棒になっているということだった。

そして、失って初めて気が付くことは、日常の至る所に在るのだということも。

私たちの体も、外側は健康に見えたり若々しく見えたりしていても内側には、それなりの消耗箇所というものがある。

使い手の癖によって酷使している場所もあるだろう。

そこを、どうケアしてくか、気にかけていくかで、外側と内側本来のバランスが取れるのだろうと、ぼんやりと思う。

スマートフォンと人の体、また妙な繋げ方をしてしまったと思いながらそれをデスクに置くと、そばに投げだされていた付箋に目が留まった。

そうそうそう、試したいことがあったのだ。

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先日、とあるカウンターで手続きをしていただいていたときのことだ。

担当してくださっていた方が、正方形の付箋紙の塊をボンッとカウンターの上に置き、一枚捲って使用した。

手続きの間、そのような仕草を何度か目にし、何かが違うと感じていたのだけれど、その違いが何なのか分からぬまま時間が過ぎた。

手続きも終盤に差し掛かったとき、この人は付箋紙の捲る方向が違うのだと気が付いた。

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ここで、正方形の付箋紙を想像していただきたいのだけれど、多くの方は糊付け部分を上にして置き、下から上に向かって(手前から奥へ向かって)付箋を捲り剥がすのではないだろうか。

しかし、その方は付箋紙を剥がすとき、糊付け部分を左側、縦になるように置き、下から上に向かって(手前から奥へ向かって)付箋を捲り剥がしていたのだ。

何となく珍しいように感じたことと、その流れるような手捌きが印象的だったものだから、雑談の中で伝えると、

このように捲り剥がすと糊付け部分がクルッと反り返ることが無いのだと教えて下さった。

そして、初めて聞いた内容に、向きを変えるだけで!?と興味を抱いた私に、社会人に入社したばかりの頃に教育係の先輩に教えてもらって以来、ずっとこの方法なのだと笑顔で仰った。

そのような出来事を思い出したものだから、付箋紙の塊を手に、いざトライ。

まずは、何も考えずに捲ってみると気にするほどの状態ではないけれど、確かに糊付け部分がクルッと反り返る。

次に、教えていただいたように糊付け部分を左側、縦になるように置き、下から上に向かって(手前から奥へ向かって)付箋を捲り剥がしてみた。

確かに、付箋紙が反り返ることは無かったのだけれど、正直なところ、どちらの方法でも使用に差支えはないと感じた。

しかし、後で気が付いたのだ。

クルッと反り返らなかった付箋紙は、糊付けなしの部分が浮くことないため剥がれにくいということに。

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社会に出ると色々なことを知ったり、気付いたり、気付かされたりするけれど、付箋紙一枚にも色々とあるものだ、そう思った出来事である。

この捲り方が私に定着するのか否かは分からないけれど、しばらくはこの捲り方でニヤッとしてみようかと思ったお昼時である。

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シューズストラップにハッとさせられた日。

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足元にも少しずつ軽やかさが欲しいこの頃、つい目で追ってしまうのは、店頭に並び始めたサンダルだ。

流行を追うことも楽しいのだけれど、私はどちらかと言えば自分好みを追い求めることの方が、より楽しいと感じられるようなところがある。

もちろん、毎年登場する“旬”を纏った数々には、心躍らされて乗ることもあるのだけれど、踊らされて乗りはするけれど流されはしない、ことも増えてきているような気がしている。

流されるときは、流された先で出会う新しい何かを楽しみにトライしてみたりして。

どちらにも魅力的な楽しみがあるので、どちらか片方だけにするという潔さはないけれど、少しずつ自分で、ものごとを選べるようになってきたのだろうと思う。

そしてそれは、自分自身に対しての責任や誠実さのようなものが、10年前の自分よりも少しだけ増したのではないだろうか、とも。

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そのようなことを思いつつ、気の向くままに数足ほどのサンダルを試着していたのだけれど、ふと、サンダルにも日本ならではのパーツがあることを思い出した。

女性用のシューズには、アンクルストラップやバックストラップなど、ストラップを様々な位置に施したストラップデザインものがある。

その中には、パチンと押し留めるタイプのストラップ以外にも、シューズの着脱の度にストラップの先端にある金具を抜き差ししなくてもいいように、

サイズを固定した金具の裏側にゴムが忍ばせてあるものや、金具を引っ掛けるタイプのものなど、バリエーションが非常に豊富である。

日本に住む私たちにとってこの金具は当たり前にあるものなのだけれど、海外ではまず見かけない日本特有のものだ。

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海外で、ストラップ部分を簡単に着脱できる、引っ掛けるタイプの金具を使ったシューズはあるのかと尋ねると、9割ほどの店員が「このお客さん、妙な事を言うな」という、分かり易いリアクションを見せ、

そのようなものを使わなくてもストラップは外すことができると言われてしまう。

在って当たり前の環境にいた私と、無くて当たり前の環境にいた店員との会話が噛み合わないのだ。

そのやり取りを見ていた現地の友人が、そっと教えてくれたことがある。

この国の人たちの多くは、日本人のように靴を脱いで家に上がるという習慣がない。

だから、靴を履いたり脱いだりする動作をシンプル化しようという必要性がないから、そのような発想もないのだと。

だから、柊希の質問は彼ら側からすれば妙な質問だと受け取られても仕方がなく、そのような靴が欲しいのなら日本製のものか、日本で企画されたものを選ぶ方が早いのだと。

ちょっとしたことなのだけれど、このようなところにも各国の文化や習慣が影響しているのかとハッとしたし、

自分にとって当たり前すぎると、それが相手にとってもそうであるという前提で向かっていってしまうことにもハッとしたことを思い出した。

そして、それ以降の私は、そのような質問をすることも無くなった。

日本でインポートシューズを手に取るとき、つい、引っ掛けるタイプの金具かどうかを確認してしまうのだけれど、未だ日本特有の金具であるように思う。

久しぶりに、ストラップひとつから色々なことを感じたあの日のことを思い出した日である。

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鼻緒ずれは事前ケアで防いではんなりと。

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シューズボックス内を掃除した。

普段の掃除は、シューズボックスを開けるたびに少しずつということが多いため、一気に掃除をする場所という意識は無いのだけれど、一掃後の清々しさはやはり気持ちが良いと思った。

その日は、その気持ち良さに乗せられて、まだ一度も履いていない下駄の「鼻緒ずれ対策」を施しておくことにした。

時々、下駄を履くと指や足の甲が痛くなるから浴衣は着たくないという声を聞く。

私も以前は、下駄は足が慣れるまでは痛いものだという印象を持っていたのだけれど、下駄を履く前の準備というものを教えていただく機会があり、その印象がガラリと変わった口である。

店頭で浴衣を目にする機会も増えつつありますので、今回は下駄の鼻緒ずれを防ぐ準備にフォーカスしてみたいと思っております。

ご興味ありましたら、ちらりとのぞいていってくださいませ。

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鼻緒ずれというのは、靴ずれの下駄バーション、草履バージョーンのようなもので、足の親指と人差し指の間を筆頭に、鼻緒が足に当たる全ての部分に出来る傷です。

特に素足に履く下駄は、皮膚と鼻緒がひっかかるようにして擦れ合うため、痛みが強く皮も剥けやすく厄介です。

中でも普段刺激を受けることが無い足の指と指の間は、刺激に慣れていないデリケートな皮膚なので、ここを一度痛めてしまうと下駄を嫌厭したくなります。

この痛みや傷、歩き難さといった鼻緒ずれを防ぐために、いくつかの下準備を行います。

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まずは、鼻緒全体をゆっくりと揉みほぐし、自然と自分の足に沿う柔らかさに整えます。

特に前つぼ(※前緒とも言うこともあります)と呼ばれる親指と人差し指で挟む部分は念入りに揉みほぐしたり、引っ張って伸ばすなどしておくと、長時間の外出でも足元が快適です。

時間があれば、お庭やベランダなどで実際に履いて数分過ごすということを数回繰り返すと、より足馴染みが良くなります。

鼻緒がある程度柔らかくなったら、石鹸か蜜蝋、もしくはベビーパウダーを鼻緒の内側、足に直接触れる部分に塗り込むか、はたいていくことで鼻緒と肌の摩擦が緩和され傷みが出にくくなります。

一般的には蜜蝋やベビーパウダーの使用をおすすめされることが多いかと思うのですが、私自身は鼻緒が粉っぽくなってしまうことが苦手なので、石鹸を使うことが多いです。

石鹸を塗っておくと汚れを防ぐこともできますし、水洗いによるお手入れをする際にも汚れと一緒に簡単に溶け出てくれるので扱いやすいように思うのですが、ここはお好みです。

浴衣の時季になりますと鼻緒専用のジェルパッドなども見かけるのですが、これは前つぼのみのタイプですので、やはり一度は手作業による揉みほぐしをしておくことをおすすめします。

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時間にして10分から15分もあれば十分だと思いますので、今年は鼻緒ずれを防ぐための事前ケアを行ってみてはいかがでしょうか。

ご自分用の下駄に、ご家族が履く下駄に、小さなお子さんの下駄ケアの参考にしていただけましたら幸いです。

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張り子の虎の裏のお顔をチラリのぞき見。

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古い店構えのお蕎麦屋さんの出窓に、季節の花が飾られていた。

年代物に見えた花器の古めかしさはタイムスリップ感というよりは、現代に程よく溶け込んでおり粋であるようにも見えた。

そして、花器のそばには、小さな張り子人形が数体並べられていた。

張り子(はりこ)人形とは、竹などで人形の輪郭を作り、そこに紙を張りつけて形を作り、最後に中の竹を取り除き再び紙で封をする方法で作られる人形である。

サイズは小さいものから大きなものまであるけれど、中が空洞になっており、見た目に反して軽いこともあってなのか、お土産品として売られていることも多いように思う。

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張り子のデザインに使われるものは様々で、私が友人からいただいたものは雪だるまなのだけれど、張り子の一般的なデザインと言えば、

安産祈願や子どもの健康祈願のお守りとして人気が高い犬や、縁起物のだるまや招き猫、頭をゆらゆらと振る赤べこや虎で、誰もが一度は何かしら何処かしらで目にしたことがあるのではないだろうか。

その張り子、古より縁起物として親しまれているのだけれど、「張り子の虎」という言葉がある。

張り子も、虎の張り子も縁起物なのだから「張り子の虎」もさぞかし、粋な誉め言葉か何かなのではと思いがちだけれど、「張り子の虎」という言葉は、いい意味で使われていないという裏の顔がある。

 

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「張り子の虎」の意味を簡単におさらいしておきますと、

張り子の虎が首を振る様子から「人が言うことにただ頷くだけの主体性がない人」や「首を振る癖がある人」という意味があります。

他には、冒頭で触れたとおり、張り子は中が空洞になっている様子から、虎と言えども怖い存在ではない、威厳もないとのことで「能力がないのに虚勢を張る人」という意味も。

「張り子の虎」そのものは縁起物なのに、言葉としては良い意味では使われていない、ちょっと不思議な存在が「張り子の虎」です。

受験勉強中にこのことを知れば紛らわしいと思う気持ちもゼロではないのでしょうけれど、

大人になってから知ると、完璧すぎる存在よりも、長所も短所も持ち合わせている方が何だか魅力的。

そのような気がして張り子の虎を微笑ましく思ったりも致します。

張り子の虎を目にする機会がありました際には、今回のお話をちらりと思い出していただけましたら幸いです。

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小さいけれど大きな自由を秘めたハンカチ。

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電車に揺られながら鞄の中をのぞくと、忍ばせておいたハンカチが目に入りニンマリとしてしまった。

TPOへ配慮したものもひと通り持ってはいるけれど、全てを取っ払って「ただただ好き」と感じたものに身を委ねる心地良さは、想像以上である。

「一枚の布でしょ」と言う人もいるけれど、エレガントさを極めるも良し、キュートさを極めるも良し、遊び心を満たすも、なりたい自分を表現するも良し、手触り肌触り素材重視というのも乙である。

自分の為に選ぶ一枚は、小さいけれど大きな自由を秘めた一枚だと思うのだ。

それに、思わず口元が緩んでしまうハンカチは、面倒なアイロンがけも少しだけ、本当にほんの少しだけではあるけれど、ニンマリとした時間にしてしまうのだから不思議である。

先日は、偶然立ち寄ったお店で総レースの素敵なハンカチを見つけたのだけれど、この手のハンカチはお洗濯とアイロン仕上げに手間がかかるからという理由で伸ばしかけた手を引っ込めると、「形状記憶」「イージーケア」の文字に目が留まった。

アイロン要らずの総レースのハンカチがこんなにも豊富だなんて、アイロン作業から解放されたい私にはもってこいではないかと、一人静かにテンションが上がった。

手間暇をかけることが嫌いなわけではないけれど、このような便利機能は、やはり有難いと思ってしまう。

しかし、このお店がおすすめしていたハンカチは、形状記憶でもイージーケアでもない、オーガニックコットンのハンカチだった。

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綿花を育てるには様々な化学薬品が必要になると聞いたことがある。

ある程度育った後も、害虫や病気予防のために薬剤を使用し、綿花収穫の効率化のために葉っぱを人為的に落とすための落ち葉剤なども使われるという。

こうして作られるコットンが一般的なコットンで、これらの化学薬品の一切を使わずに手間暇をかけて育てた綿花で作られるコットンがオーガニックコットンである。

これだけを聞くと一般的なコットンには、大量の化学薬品が残っているような印象を抱きそうになるけれど、

実際のところ、一般的なコットンに残っている化学薬品の量はそれほど多くはないと言い、オーガニックコットンとも大差ないのだそうだ。

ただ、オーガニックコットンは厳しい基準のもと、収穫後も化学薬品の残量を幾度も検査するなどしており、

デリケートな肌を持つ赤ちゃんや、アレルギー体質の方にとっては、不安材料を出来る限り取り除いたコットンということで、安心できる素材として認識されている。

そしてこれは、お店の方の受け売りだけれども、これまでのオーガニックコットンの価格は、コットンのクオリティというよりは、全ての工程にかけられる手間暇が反映されたものだったけれど、

近年では綿花栽培をする方が増え、綿花の成長に適した環境で栽培されることにより化学薬品が不要になることもあるといった理由から、リーズナブルなオーガニックコットン製品も増えているのだそうだ。

すっかり世の中に定着したオーガニックという言葉だけれど、一口にオーガニックと言っても様々なのだと知ったハンカチ売場である。

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素材にこだわるハンカチ選びも楽しそうだけれど、今の私は、自分の直感がシンプルに好きだと感じるデザインに身を委ねる心地良さにニンマリしたい気持ちが勝っているようだ。

ハンカチを新調する機会がありました際には、お好きな視点で楽しんでみてはいかがでしょうか。

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「よろしい」と「結構」の罠にご注意あれ。

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体の電池が切れかけたものだから、その場から一番近い、軽食を摂ることができる喫茶店へ入った。

お昼時でもおやつ時でもない妙な時間帯だったけれど、飲み物とホットサンドを注文し、やっとひと息つける安堵感とともに、しばらくぼーっとすることにした。

スマートフォンも手帳も本も鞄から出さず、しかし、間の抜け過ぎた表情になってしまわぬよう、もう少しだけ背筋を伸ばして脱力するのだ。

透明の氷がゴロゴロと入ったグラスの水を喉奥へと流し込むと、体の中心から四方八方へと冷たい水が染み渡っていく感覚が心地よく、ふと夏の気配を感じたような気がした。

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しばらくすると、背後から「お飲み物と一緒に、こちらの自家製チーズケーキはよろしかったですか」と聞こえてきた。

自家製チーズケーキがあるのかと、テーブル端に立てかけてあったメニューをチラリと見ていると、「よろしいです」と聞こえた。

この手の言葉は、扱いが難しい言葉である。

この手のというのは、「よろしい」や「結構」といった肯定とも否定とも取ることができる言葉。

相手との意思の疎通が出来ていなければ、会話が通じないという事態に陥ることがある。

果たして、店員と背後の席に座っているお客さんとの意思の疎通度は如何程か。

そのようなことを思いつつ、運ばれてきた作りたてのホットサンドに手を伸ばした。

ホットサンドの美味しさに気を取られて背後のやり取りのことを忘れかけていたときだった。

「チーズケーキは注文していないんですけど」というお客さんの声がした。

見えはしなかったけれど、背後から感じる店員の困惑気味の空気に、今回は通じ合えなかったのかと思った。

店員は自分がおすすめした自家製チーズケーキに対して、よろしいですと言われたため、「良いですね、それも下さい」という意味で「よろしいです」を捉え、

お客さんは「不要です」という意味で「よろしいです」と返していたのだ。

「よろしい」も「結構」も両方の意味で使うことができるけれど、何となく「よろしい」は「良い」という印象が強く、「結構」にはお断りの印象が強いように思う。

ただ、そう決められているわけではなく両方の意味が含まれている以上、

相手との意思の疎通具合を感じ取ったり、想像力を働かせるなどして会話をしないと、日本語なのに、日本人相手なのに通じないという妙なことが起こるのだ。

私は、これだから言葉は面白いと思ってしまうのだけれど、同時に大切に扱わなくてはとも思う。

そして、接客用語というものに対しては各々の立場もあり、賛否両論あるけれど、

考えて言葉を発するという機会を奪いすぎてしまうと、知らぬ間に想像力や思いやりが削ぎ落されていくのではないだろうかと思ったりもする。

店員が手にしているトレーに乗った自家製チーズケーキはテーブルに置かれることなく、キッチンへと戻って行った。

皆さんも、「よろしい」と「結構」の罠にご注意あれ。

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体が望んでいることを私が叶えてあげる。 

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今月に入ってから、涙活(るいかつ)という言葉を聞く機会が多い。

既に世の中に定着している言葉なので、今更ではあるのだけれど、涙活(るいかつ)とは、小説や漫画、映画などを読んだり観たりすることで涙を流すこと。

涙の研究は今も至る所で続けられているけれど、研究によって、私たちが流す涙にはストレスホルモンが含まれていることが分かっている。

この、脳内で分泌されるストレスホルモンは、私たちの気持ちを揺さぶったり、緊張させたり、強張らせたりする少々厄介な分泌物なのだけれど、

涙と一緒に排出されることから、泣くことはストレス解消に繋がると言われている。

他にも「泣く」という行為そのものには、ストレスによって高ぶった神経を沈める効果があることから、

ストレス解消と不安定な気持ちを穏やかな状態に整えることを兼ねた方法として、涙活(るいかつ)を薦める医師やカウンセラーが多い。

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確かに、「泣くだけ泣いたら気になっていたはずのことが、どうでもよくなった」「泣いたらスッキリしてお腹が空いた」ということは多くの方が経験していることのように思う。

しかし、ただ涙が流れればそれで良いのかと言えば、そうではないという。

大きなあくびをしたときに涙が出ることがあるけれど、そのような涙ではなく何かしら気持ちが動いたことによって流れ出る涙に、その効果があるのではないかという見方が有力なのだそう。

だから、小説や漫画、映画などを読んだり観たりすることで気持ちを刺激し、柔軟に解すことによって流れる涙が注目されているのだ。

この時に選ぶストーリーは、どのようなものでも構わないそうなのだけれど、

感情移入できるもので最後に希望がキラリと輝くようなものであると、ストレス解消と気持ちのメンテナンスの成果もアップするのだそうだ。

泣くことは悪いことではないのだけれど、世代や育った環境、性格によっては、泣くことは良くないことだと感じてしまい、涙を体の中に押し込めてしまう方も多いというのは、よく耳にする話である。

体は泣いて不要な物質を一掃したいだけ。

それならば、この時間だけは体のことは体に任せて、体がしたいように好きにさせてあげよう。

体が望んでいることを私が叶えてあげる。

自分の体とは、そのような付き合い方をしてみても良いように思う。

何ごとも一人で抱え込みすぎずに、程よい距離感でのお付き合いというようなイメージだろうか。

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私の友人にもいるのだ。

責任感が強く、一人で抱え込み過ぎてしまうタイプの友人が。

以前は、「泣いても良い、涙活がブームだとか言われてもねぇ……」と渋いリアクションだった友人なのだけれど、その友人が最近涙活(るいかつ)にはまっている。

その友人が先日、涙活(るいかつ)で手っ取り早く自己メンテナンスを行おうと、ラストでは希望がキラリと輝く古い映画を観たという。

しかし、ラストの記憶が間違っており、手に汗握りっぱなしで疲労困憊。日を改めて、涙活(るいかつ)をし直すことになったのだとか。

涙活(るいかつ)にも全力を注ぎまくる友人を微笑ましく思った日。

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盛らずによそったご飯で、美味しい夕食を。

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炊飯器から軽快なメロディーが流れ、ご飯の炊き上がりを知る。

キッチンへ行き、炊飯器をぱかっと開けたときの幸せな香りといったらない。

今年に入ってすぐのことだっただろうか。

買い替えたばかりの炊飯器の電源が炊飯の途中で切れる、という非常事態に度々見舞われた。

「今宵のごはんの出来栄えは如何に!?」とドキドキする機会が増えたため、交換していただくことにした。

それから数か月が経った今、新しい炊飯器は、私に完璧なる安心感と美味しさを日々提供してくれている。

これだけ美味しそうな炊き上がりを見せられてしまうと、お茶碗によそう際にも自然と気持ちが入るように思う。

ご飯と言えば「よそう」という言葉を使うけれど、昨今、「盛る」という言葉を選ぶ方が増えているのだとか。

私は「ご飯大盛り」「食材を盛り付ける」といった表現を見聞きし慣れた結果なのだろうかと想像したのだけれど、

このご飯に対して使われる「よそう」「盛り付ける」という表現にも先人たちの食べ物に対する気持ちや時代背景が見え隠れしていたのだ。

今回は、このご飯に対して使われている「よそう」「盛り付ける」という言葉に触れてみたいと思っております。

ご興味ありましたら、少しお付き合い下さいませ。

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言葉の表面的な意味だけを見れば「盛る」という言葉も通じますし、実際に「ご飯を盛る、盛り付ける」と言っていた時代もあったといいます。

その時代がどのような時代だったのかと言いますと、戦続きの戦乱の世で、食事は楽しむものというよりは戦うためのエネルギーを補給するもの、というような認識が強い時代だったようです。

もともと「盛る」という言葉には、器にうず高く積み上げるようにして入れるという意味がありますので、

この時代のご飯は、お茶碗を満たすようにして入れた後、その上に更にたっぷりと積み上げるように盛っていたといいます。

一方の「よそう」という言葉は漢字では「装う」と書き、飾りつける、身だしなみを整える、風情を添えるなどの意味が含まれていますので、

お茶碗の中に「ご飯をよそう」ということは、丁寧に飾るようにして入れる、ご飯を整えるようにして入れるということであり、そこにはお米に対する気持ちや風情なども添えられています。

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同じお茶碗一杯のご飯でも、よそい方によって、より美味しそうに見えたり、美味しさが半減して見えるのが、ご飯の不思議なところであり、奥深いところでもあります。

何気に、その日の気分が表れてしまっているということもありますので、たまには、自分がよそったご飯をセルフチェックしてみるのはいかがでしょうか。

盛らずによそったご飯で、美味しい時間を是非。

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落とし方が異なります。浴室内の鏡に付着してしまったウロコ汚れの正体はどっち?

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友人が、おすすめできるハンドクリームはないかと聞いてきた。

非常に強い肌を持っている友人なのだけれど、浴室内の鏡についたウロコ汚れ(水垢)を一掃しようと様々な専用洗剤を素手で扱っているうちに、友人曰く“人生最大の手荒れ”を招いてしまったのだそう。

初めての経験を面白可笑しく話す友人に、人生最大の手荒れと引き換えにした浴室内の鏡の状態は、さぞかしピッカピカなのだろうと尋ねると、

これが困ったことに、キレイにはなっていないわけではないけれど、スッキリと落とし切った満足感には至らず、未だにウロコ汚れ専用洗剤をジプシー中だという。

私たちの脱線しかけていた会話はこのあと無事にハンドクリームへと戻ったのだけれど、数日後、

ふと思ったのだ。

もしかして、水垢ではなくて湯垢だったのではないのだろうかと。

もしくは、湯垢だと思っていたけれど水垢だった、とか。

私は、水垢と湯垢は同じものだと思っていたことがあったのだけれど、浴室内のメンテナンスに入っていただいたことがきっかけで、この水垢と湯垢は似て非なるものだと知った。

それからは、お掃除しても水垢(湯垢の場合も)が落ちない場合は、お掃除方法を変えるようになったのだけれど、友人ももしかして……と。

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今回は、水垢と湯垢の違いをシェアさえていただければと思っております。

ワタクシ柊希の脳内整理も兼ねておりますが、ご興味ありましたら、ちらりとのぞいていって下さいませ。

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皆さんのご自宅浴室内の鏡に付着している通称ウロコ汚れは、水垢と湯垢のどちらでしょうか。

水道水には炭酸カルシウムというものが含まれています。

これが、あの白いウロコを作っています。

電気ポット内に白いものが付着することがありますが、同じものです。

単純に、この成分だけでできたウロコ汚れは水垢でアルカリ性の汚れです。

一方の湯垢と呼ばれるウロコ汚れは、水道水に含まれているマグネシウムが浴室内で使ったシャンプーや石鹸などに含まれている成分とくっついてできており、酸性の汚れなのだそう。

一見、同じウロコ汚れに見える汚れでも、アルカリ性と酸性では全く異なる性質の汚れなので、同じ洗剤で落とすことができないことが腑に落ちるのではないでしょうか。

特に浴室内に横長に設置してある鏡の場合、同じ洗剤で洗っているのに、洗い場付近のウロコ汚れの落ち具合とバスタブ付近のウロコ汚れの落ち具合が異なるという場合もあります。

ですから、ウロコ汚れのお掃除前には、単純に水道水の成分によってできた水垢汚れなのか、

水道水にシャンプーや石鹸などの成分が混ざってできた湯垢汚れなのか、確認してから洗剤を選ぶのも手です。

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アルカリ性の水垢には、真逆の酸性の洗剤やクエン酸が効き、

酸性の湯垢には、真逆のアルカリ性の洗剤や重曹が効くということです。

市販されている専用洗剤から選ぶ場合も、自宅の汚れが水垢なのか湯垢なのかを確認してから洗剤を選ぶと、洗剤を無駄にしなくて済むように思います。

中には、巷に溢れているクエン酸や重曹を使ったナチュラルクリーニング方法できれいに落ちないと感じたことがあるという方もいらっしゃるかと。

ご家庭によって使っているシャンプーや石鹸、ボディソープその他の成分はマチマチですし、浴室内の使い方、泡の飛び方も然りです。

そうなりますと、お掃除方法が正しいものだったとしても、ウロコ汚れの成分が異なれば「効いた、効かなかった」といった真逆のリアクションが生まれることも珍しくありません。

このような時には、少しだけ視点を変えて、どのようにしてできた汚れなのかチェックしてみて下さいませ。

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今回は、水垢と湯垢汚れの見分け方のお話だけのつもりだったのですが、

せっかくですので、厄介な湯垢(酸性)汚れに使う洗剤レシピのひとつにも触れておきます。

酸性という性質を持った湯垢汚れには、アルカリ性の重曹が効くことが多いのですが、これだけではスッキリ落とせないこともあります。

このような時、もしご自宅で使っている食器洗い用洗剤がアルカリ性であれば、重曹と混ぜ合わせてスクラブ洗剤として使ってみるのも手。

この時、中性洗剤や酸性の食器洗い洗剤を混ぜてしまいますと、重曹のアルカリ性が弱くなってしまいますので、しっかりと確認してくださいませ。

これは、私の印象なのですが、少ない量でしっかりと汚れを落とすことができるような食器洗い洗剤は、アルカリ性のものが多いような気も致します。

何かしらのヒントや閃きのきっかけにしていただけましたら幸いです。

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