急ぐ理由はなかったけれど、近道をしようと思い立ち、公園を突き抜けることにした。
色付き始めている木々と、風通しの良い空間に思わず呼吸が深くなる。
秋の匂いを楽しみながら歩いていると、ベンチを囲んだ子どもたちが真剣な顔をしていた。
学校の帰り道の途中で拾ったものをベンチの上に広げて眺めているようだった。
ちらりと横目で覗き見しながら通り過ぎたのだけれども、
真っ赤な葉っぱや、緑色の葉っぱ、
道端で拾うには珍しい部類に入るのであろう、白くてコロンとしたフォルムの丸い石、などが並べられていた。
その横に、大きな文字で『地球のお水』と書かれた手作り冊子のようなものが置かれていた。
何が書かれていたのか中身を知る術はないのだけれど、
そのタイトルから、子どもの頃に聞いた地球上にある水の話を久しぶりに思い出した。
地球上にある水は、固体、液体、気体とその形状を変えながら、陸、海、空を行き来している。
雨や雪が降ると、私たちが使うことができる水が増えたように錯覚するけれど、
地上にある水は、大地、動植物を介するなど、様々な影響によって蒸発し、空へ。
また、地上から川へ、そして海へ、更に海から蒸発して空へ、というルートで、
地上に入ってきた水の分だけ、地上にあるものが受け取った水の分だけ蒸発するため、
地球全体にある水の量は変わらないという話だ。
もし仮に、地上から川へ、そして海へというルートが絶たれ、
海に水が流れていかない状況の中、海水が蒸発し続けるたとすると、
広くて大きくて深い、あの海でさえもカラッカラに干からびてしまう日がくるのだ。
その、想像を超えるような話を初めて聞いた時、
あって当たり前のものが無くなる不安のようなものを子どもながらに感じた記憶がある。
そして、大人になった今、これだけ文明や化学が発達しているにも関わらず、
空気中の水分を集めて水を作ることはできても、
ゼロから水を作ることができないことや、
絶妙なバランスで循環している水に対して自然の大きさを感じることがある。
本当の意味での、水は有限だということ、
水だけを大切にしてもバランスが崩れてしまうのだということを私が理解できたのはいつだったかな。
理解できたとは言え、ボタン一つで、レバーを上げるだけで、蛇口をひねるだけで出てくるお水。
その状況が当たり前だと思ってしまっている私もいる。
またすぐに忘れてしまいそうだけれども、
今日は、その当たり前のハッピーに感謝しつつ、お水を使ってみようかしら。
そのようなことを思いながら近道の公園を抜けた。