ベッドに潜り込んでからの記憶が無いまま随分と早く目が覚めた。
目覚めたときに感じる部屋の空気が日に日に柔らかくなっているからか、
気合いを入れなくてもベッドから抜け出せるようになってきたように思う。
太陽が顔を出す前の、夜でも朝でもない、あわいの景色を見ようとベランダへ出た。
さすがに外は冷え込んでおり、見慣れた景色は薄っすらとした靄(もや)に覆われていた。
霧や靄(もや)といった言葉は気象用語でもあるから天気予報でもよく耳にする言葉だけれど、
なんて曖昧な表現なのだろう、と感じることがある。
更に、これらの言葉はシチュエーションが変われば
違う言葉に言い換えられることもあるのだから、ややこしさ満点である。
だけれども、一筋縄ではいかぬ、そのややこしさを紐解いた上で使い分けてみると、
とても情緒的な表情を見せる言葉でもあるのだ。
季節の変わり目に登場する機会が多い言葉でもあるので、
この機会に、霧や靄(もや)、霞に朧(おぼろ)といった言葉の違いをのぞいてみませんか。
私たちが霧や靄(もや)と呼んでいる現象は、程度の差はあるようなのだけれど、
空に雲ができるときと同じようなことが地面に近い、
私たちの目や手が届く範囲内で起こっているのだそう。
空気が冷やされて、
その冷やされた地域の水分が空気中にとどまることができる最大限度量に達してしまった結果、
霧や靄(もや)を発生させ、私たちの視界を曖昧なものにする。
同じものであるにも関わらず、どうして呼び名が複数存在するのか。
それは、気象学的な視点と文学的な視点からきている。
まず、霧のような靄(もや)のようなものが目の前に広がっていた場合。
気象学的な視点では、辺りの景色が比較的に見えにくい状態を「霧」と呼んでいるのだけれど、
目視できる範囲が1キロ未満の状態の場合は「霧」と呼び、
この範囲が1キロから10キロまでに拡大されると「靄(もや)」と呼ばれている。
簡単に言えば、霧の濃度が薄まった状態が靄(もや)ということになり、
天気予報で「霧」と出ていれば視界が悪いので注意が必要だ。
そして、霧は条件さえ揃えば時間や場所を問わず発生するけれど、
文学的な視点、表現という視点では、
夜に出た霧は、「霧」と呼ばずに「朧(おぼろ)」と呼ぶことがある。
同じものを表しているのだけれど、朧(おぼろ)という表現は気象用語ではないため、
正式な気象情報で使われることのない、文学的な表現のひとつだ。
朧(おぼろ)と似た情景を指す言葉には「霞(かすみ)」というものもある。
霧に覆われた状態に、さりげなく趣きを加えたいときなどに使うことができ、
幻想的な響きの言葉にも感じられるため、
これからの季節、「春霞」といった言葉に触れることもあるかもしれない。
しかし、この言葉。
もとは、空気中にさまざまな細かい粒子が浮かんでいる状態のことを指す言葉なので、
黄砂などで空が覆われているような状態の空や、
モクモクと立ちのぼる煙に覆われた空にも使うことができる。
「霞(かすみ)」は、思っている以上に万能ワードであると同時に、
見える景色をどう伝えるか、使い手のセンスに委ねられている言葉でもある。
何となく違いは分かっていても、やはり、ややこしさ満点だと感じてしまう私は、
色んな意味で現代社会にどっぷりと浸かってしまっているのかもしれない。
気象情報を伝える際に使う場合には霧が濃ければ「霧」、薄ければ「靄」という基準をもとに、
そして、春に見られる深くて濃い霧のことは「霞」と呼び、
同じ現象が夜に起きれば霧でも霞でもなく朧(おぼろ)と呼ぶと良いのかもしれない。
今年の春は、言葉の曖昧さや、ややこしさも楽しみながら
「霞」という言葉を春の景色に添えてみようかしら、と思う。