幸せのレシピ集

cawaiiとみんなでつくる幸せのレシピ集。皆様の毎日に幸せや歓びや感動が溢れますように。

極早生みかんの酸っぱさと体の正直さ。

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少し前に極早生みかん(ごくわせみかん)をいただいた。

気候の影響なのか品種の違いなのか、降臨したみかんシーズンのトップバッターのルックスは、フレッシュな緑色を残した檸檬色をしていた。

皮を剥いたときにパチンと弾けるように広がるあの瑞々しい香りがたまらない。

ひと房を口の中に放り込むと、酸味強めの果汁が口の中にじゅっと溢れ出た。

甘くはない、な。

正直なところ、そのような感想が浮かんだけれど、夏を乗り切った体にとってはご褒美のような、まさに今の身体が欲している味がした。

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その時季にしか味わえないものを少しずつ味わうときに思うことがある。

例えば、フルーツ。

フルーツは甘さが決め手という流れがあるのか、世の中にあるフルーツは、本来の姿では存在できず、より甘くあることを課せられているように見えて、少し気の毒に感じたりする。

そう感じている私も、簡単にスイートマジックにかかり、甘いフルーツに出会うと気持ちが高揚することも多々あって、間違いなく世の中の、流れの中の一員であるのだけれど、酸っぱいも甘いもどちらも「らしくていい」という感性は無くしたくないと思っている。

この時季のこれは、こういう酸っぱさよね。

今年は甘くて嬉しい。

今年は、びっくりするほど酸っぱくて食べるのがツライけど、この季節がきたね。

と、味以外も含めた「その時ならでは」を静かに、あるいは大切な人と楽しみたいと思うのだ。

いつ食べでも甘くて美味しいのは嬉しくて有難いけれど、甘くないがあるから甘いを、甘いがあるから甘くないを感じられているわけで。

そればかりではいつか、その「美味しい」は美味しいでなくなってしまうのではないだろうか、なんて心配がぼんやりと浮かんだ。

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私が口にした今年の極早生みかんは、昨年のものよりも酸味が強いように感じたけれど、口の中に溢れ出た果汁は、ものすごい勢いで五臓六腑に染み渡っていくように感じられた。

頭の中では、甘いとは言えなかったそれに対してのクエスチョンマークが点灯したけれど、体の方は、「夏が終わったら、これ、これ、これですよ!」と言いながら喜んでビタミンチャージしているかのようだった。

体はいつだって正直でシンプルだ。

そのようなことを思いつつ、今年お初の極早生みかんを美味しくいただいた夜。

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期間限定で始まった同棲生活は、甘い香りと共に。

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楽しみにしていたことが延期になった。

密かにではあったけれど、とてもとても楽しみにしていたことである。

残念ではあるけれど、そういうことも生きていれば多々あるわけで。

しかし、驚いたのは気分をスパッと切り替えたつもりだったのに、家の中で地味にグズグズしている自分がいたことだ。

そのグズグズっぷりから、自分が思う以上に楽しみにしていたのだと自分のことを改めて知り、我ながら笑ってしまった。

だから、グズグズしている自分をあやすかのように、ぽっかり空いた時間は好きな場所へ行こうと家を出た。

その日選んだのは、家から一番近くにあるフラワーショップである。

フラワーショップに入ったときの、ひんやりとした空気や、澄んだ空間に広がる花や少し青くさい葉っぱの匂いが好きだ。

切り花や観葉植物を眺めていると、あれもこれもと欲しくなるのだけれど、目の前にあるものは全て命あるもの。

一緒に過ごす時間の長さがどれほどなのかは分からないけれど、お互いに心地よい時間を過ごすことができるであろう量だけをいただいて帰ろうと思いながら店内を見回る。

そう思っていると、とびっきりの一輪を選ぶ目も真剣になるのだけれど、不思議なもので、そのとびっきりの一輪は、フラワーショップに入って最初に心惹かれたものであることが非常に多い。

そして、散々目移りしたのにコレに落ち着いたなと思いながらお会計をするのである。

まるで知らぬ間にエニシが結ばれて始まった恋のような……一輪との出会い。

大袈裟すぎる物言いだけれども当たらずとも遠からずで、とびっきりの一輪は別れのときまで愛おしいのである。

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私には、ふらりとフラワーショップへ入るのに勇気を要した時期があった。

あの空間に足を踏み入れたら最後、絶対買わなくちゃお店からは出られない。

一輪だけ買うなんて、お店の方に悪いのではないだろうか。

たった一輪?だなんて思われないだろうか、などなど。

入りたくてたまらない場所なのに、このような感情がひと通り生まれていたように思う。

もちろん、これらはこちら側の勝手な思いであって、フラワーショップの方からすれば、「お気軽にのぞいて下さい、1輪からでも承りますよ」と両手を広げて迎え入れる準備をされているというのに。

人は良くも悪くも目の前の景色を自分が見たいように見るところがあるけれど、遠い日の私はフラワーショップをそのような場所として見ていたのだ。

今ではふらりと立ち寄ることができる、ちょっとした癒し空間のひとつであり、自分の世界は自分で如何様にも広げていくことができる、そのようなことも思い出させてくれる場所でもある。

その日は、お店の中でその日一番大きいというバラを一輪、手にして帰宅した。

そして、期間限定で始まった同棲生活は、甘い香りと共に今も続いている。

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自分センサーで感じる香り。

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書斎部屋のキャビネットの上に、白いパフュームキャンドルを置いている。

いつだったか忘れてしまったけれど、友人が贈ってくれたものだ。

キャンドルポットは、女性の手のひらに乗せることができるくらいの大きさで、大きすぎず小さすぎずというサイズ感なのだけれど、磁器製だからなのか、見た目よりもずっしりとした心地良い重みがある。

そして、キャンドルポットの蓋の上には番いの白い鳥が仲睦まじく寄り添っており、眺める度に気持ちがふわりと軽くなるところが気に入っている。

磁器や陶器と聞くと頭の中がこちゃごちゃしてくるけれど、磁器は「石もの」、陶器は「土もの」と表現されたりもする。

磁器は、ガラスの材料に使われる成分を多く含んでいる石の粉に粘土を混ぜているため、焼きあがると表面を薄っすらとガラスでコーティングしているかのような艶と滑らかさが出るのが特徴だ。

一方の陶器は、地中の粘土を使って作られるため、温かみを感じる質感や感触に仕上がるという特徴がある。

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このパフュームキャンドルポットは前者の磁器製で白一色のシンプルなものなのだけれど、艶と滑らかな質感が華やかさを添えてくれている。

番いの鳥を摘まんで蓋を開けると、甘くて深い、寒い季節がよく似合う、とても贅沢なよそ行きの香りがする。

友人は、キャンドルは直ぐに使い切ってしまうだろうと予想し、キャンドルを使い終えたあとは小物入れとして楽しめるように、この蓋つきタイプを選んでくれたように思う。

しかし私は、キャンドルに火を灯すどころか、揺れる炎と熱を加えられた香りの変化を想像しながら、香りをちびりちびりと楽しんできた。

ここのところ気温が少しずつ下がってきていることもあり、そろそろ蓋を開けっぱなしにして、部屋の温度によって優しく広がる香りを楽しもうかと、先日久しぶりにポットの蓋を開けたところ、諸々の気分がピタッと合い、初めてそれに火を灯した。

初めは燃える芯の苦い匂いがしたけれど、すぐに贅沢な香りが広がった。

私の想像を超えていたのは、炎のオレンジ色が白い磁器に反射して、そばに置いていた蓋の番いをほんのりとオレンジ色に染めたことだ。

その優しい色合いは、火を灯さなくては分からなかったこと。

どうしてもっと早く火を灯さなかったのだろうかと思ったけれど、優しい雰囲気の番いの鳥たちを眺めていたら、そのようなことはどうでもよくなってしまって、ポットを手に各部屋を周りリビングで少しの間、炎を眺めて火を消した。

あっという間に火を灯した状態の虜になり、もっと、もっとという気持ちが湧いていたけれど、纏う香りは残り香ほどが私の好み。

ここはグッと堪えて潔く、である。

パフュームキャンドルに限らず、朝の匂い、夜の匂い、玄関を開けたときの外の匂い、自宅の匂い、洗いたてのシーツの匂いなどなど、

香りには色も形もなくて目で見ることはできないけれど、心地良い香りは、人の気持ちを和らげてくれる不思議アイテム、魔法の類のように思う。

これからの季節に合う香りは、春夏のそれとは異なる雰囲気をしています。

暮らしの中で感じられる香りを、自分センサーで楽しんでみてはいかがでしょうか。

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気付けばコーヒー以外はイケルクチ。

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コーヒーショップが近くにあるのか、コーヒーのいい香りが何処からともなく漂ってきた。

歩きながら自然とその香りを吸い込んだ。

あぁ、癒される。

確かにそう感じるのだけれど、私はコーヒーが苦手だ。

挽きたての豆から放たれる香りや淹れたときの香り、コーヒーゼリーは大好きなのだけれど、どうにもこうにもコーヒーを口にすると眉間にシワが寄り、口の中が騒がしくなってしまうのだ。

ただ、ご厚意でコーヒーを出していただく機会もあり、そのような時には眉間にシワが寄らないように細心の注意を払って、ミルクとお砂糖を投入してありがたくいただいている。

しかし、何度トライしてみても、この苦手が好きに変わることは無いまま今に至っている。

母は、そんな私を見る度に「まだ飲めないの?私、失敗したなと思ってるの」と言う。

きっかけは、確かに母なのである。

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私の実家には、コーヒーのカフェインは成長過程にある子どもには刺激が強すぎるだろうという考えのもと、コーヒーは大人になってからという実家ルールがあった。

この、大人になってからというのは、高校生くらいになったらという意味である。

それまで、コーヒーショップから漂ってくる香りや大人たちが素敵なカップでコーヒーを飲む姿に、ちょっとした憧れというのか、羨ましさというのか、そのような感情があった。

そして、その時が私のもとにも来たのだ。

「もう、飲んでいいわよ」という母のお許しのもと、素敵な香りが広がるコーヒーを口にしてみた。

結果、一瞬で撃沈である。

こんな苦いもの飲めるか!と本気で思った。

これが「美味しい」という味のひとつなのか?とも。

母は、飲んでいたら慣れるわよと笑いながら言っていたけれど、その予想は大きく外れ、私は完全に紅茶や日本茶、中国茶にハーブティーと、気付けばコーヒー以外はイケルクチの大人に仕上がった。

適度なコーヒーは体に良い作用があることも広く知られるようになり、その手の情報を入手した母からは、少しくらい飲んだら?と今度はすすめられるようになったのだけれど、どうにもこうにもならないのである。

食材の好き嫌いはないけれど、唯一の苦手がコーヒー。

だから、食の好みなどのパーソナルな部分を知り合えていない方との席で、「とりあえずコーヒーを人数分」などと気を利かせて私の分まで注文していただいたとき、妙にドギマギしてしまうのである。

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そのようなことを思いながら歩いていると香りの出所らしきコーヒーショップを見つけた。

外から店内の様子へと視線を向けると、多くの人が美味しそうにコーヒーを口に運んでいた。

大人になった今でもコーヒーを口に運ぶ大人を目にすると、ちょっとした憧れの感情がフワッと湧き上がる。

でもこれは今の私の感情ではなく、遠い昔の幼き私が抱いた感情が、コーヒーの香りやコーヒーゼリーで大人を疑似体験していた記憶をスイッチにして再生されているのだろう。

そう気が付いたのは、ごく最近のことだけれど、いつの日かコーヒーの美味しさを知る日が私のもとにも来るのだろうか。

コーヒーの香りをまとったある秋の日のひとこまである。

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指の隙間から零れ落ちそうな瞬間も掬い上げていけたなら。

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あっという間にハロウィンだ。

今年は残暑が長引いたからだろう。

私の気持ちはハロウィンに追い付かず、数日前に慌ててホワイトパンプキンのオブジェをひっぱり出し、ゴールドとダークブラウン色をしたオーナメントボールを観葉植物に少量飾り付けた。

ハロウィンは日本で言うところのお盆みたいなもので所変われば、とても大切な意味がある風習である。

それを「気持ちが追い付かず」と感じている自分を客観視すると、このようなところからも自国の風習ではないことが垣間見えるものなのだなと気付かされた今年のハロウィンである。

そのようなことをぼんやりと思いつつ一夜飾りに近いハロウィンインテリアを横目に、数年ぶりに口にしたミルキーを、濃い目に淹れた紅茶と共に味わった。

優しいミルクの甘さに思わず体を揺らしてしまった。

しかし、ハロウィンアイテムによって刺激されたのはハロウィン気分ではなく、これから少しずつ現実味が濃くなる年末年始のことばかり。

開きっぱなしの手帳と雑記帳を閉じ、このような時だからこそココロに余裕と遊びゴコロをと、キャンディーポットに入っているミルキーを全てテーブルの上に広げた。

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ミルキーは、ご想像通り不二家さんのミルキーである。

ミルキーと言えばピンクがかった赤と優しい青を使ったデザインの包み紙が定番カラーだけれど、これ以外にも黄色の包み紙と、黄色と緑色を使った包み紙の合計3種類が用意されている。(※定番商品の包み紙です。)

そして、黄色と緑色を使ったデザインの包み紙には、Happyと印字された四葉のクローバーがプリントされており、この包み紙はハッピークローバーと呼ばれている。

頻繁にお目にかかることができるという訳ではないのだけれど、全く遭遇しないほどレアということもなく、絶妙なバランスで仕込まれているように思う。

だからつい、ミルキーをバラバラッと広げてしまうのだろう。

そして久しぶりに目にしたハッピークローバーが一粒。

たったこれだけのことなのだけれど、今日は良い日だ、これからどんなハッピーが私のもとに?

そう思いながら過ごす1日はとても心地よくて、心の中で不二家さんの遊びゴコロに“いいね!”を送った。

翌日、テーブルの上に転がるハッピークローバーを眺めながら、前日のハッピーを探してみた。

真っ先に思いついたのは、白だしにワサビを効かせただし汁に漬けた大ぶりのオクラが、ぱきっと鮮やかな緑色に仕上がったことだった。

こちらもまた、たったこれだけのことだったけれど、うっかり指の隙間から零れ落ちそうな瞬間も掬い上げていけたなら、日々や暮らしに色を添えられるように思う。

Happy Halloween & Have a nice day!

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ベンチある場所に日常の欠片あり。

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商用施設内に設置してあるベンチ。

ここでは、様々な方々の、ちょっとした日常を垣間見る機会が多い。

メインから少し距離をとった場所に設置してあるからなのか、休憩場所という雰囲気がそうさせるのかは分からないけれど、素の姿ややり取りが出やすい場所のように見える。

私は、休憩場所というよりは、手荷物を整理する際に使わせていただくことが多いのだけれど、先日の先客は老夫婦だった。

お二人とも小柄で穏やかな表情を浮かべながら、ちょこんと腰掛けていらっしゃったものだから、思わず共白髪人形や高砂人形を連想した。

いつものように荷物を小さくまとめていると、隣から「もう少しお水は飲まなくちゃダメよ」とご婦人の声がした。

男性は、薬は流し込めたから水は足りてると言いながらペットボトルのキャップを閉めているところだった。

何だか微笑ましいやり取りだったけれど、私もご婦人の指摘に一票、そう思った。

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以前、医療従事者の方々とお話をしていたときのことである。

多くの方が無意識に、薬を飲むときのお水は、薬を飲み込みやすくするためのもの、薬を胃へ流し込むためのものという認識を持っているようだという話題があった。

もちろん、そのような役目も担っているお水なのだけれど、他にも、薬をしっかりと溶かして効率よく薬を体内に吸収させる目的や、薬が食道や胃全体に直に触れることによる刺激から食道や胃を守る目的。

他にも、ゼラチンを使ったカプセルは、少量の水分だとベタベタしてしまうけれど、このような状態の薬が食道や胃の一部に貼り付くと、

その貼り付いた場所で集中的に溶け、食道や胃壁の一部分にダメージを与えてしまうことも考えられるため、この状況を防ぐ目的などもあるとのこと。

薬も進化しているので、少量の水でもしっかりと溶けるよう作られているとは思うのだけれど、体内の様子を逐一確認することはできないため、念には念をということなのだろう。

少し落ち着いて想像してみれば分かることなのだけれど、飲むことに集中していたり、時間に追われていたりすると、つい少量のお水で薬を飲み込んでしまうという方が多いという。

そして稀に、水なしで飲むことができるチュアブルタイプのお薬でないにも関わらず、「私は水なしでも薬を飲むことができる」と自慢げに仰る方や、

ご年配の方の中には、水分でお腹がちゃぽちゃぽになるのを避けたくて、薬を少量のお水で飲むという方もいらっしゃるのだとか。

お薬やサプリメントを口にする際には、十分なお水でしっかりと体内へ運び入れて、安全かつ効率良く必要な箇所へ届くよう、癖付けしておくと何かと安心という話である。

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そのようなことを思い出したものだから、私はご婦人の指摘に大きく賛同していたのだけれど男性は、にこやかな表情で「大丈夫、大丈夫、心配ない」と返していた。

その素敵な笑顔で言われたら、もう何も言えないじゃないかと思ったけれど、やはり奥様はお強かった。

「子どもみたいなこと言わないで飲んでください。」ともうひと押し。

すると、男性は閉めたばかりのキャップをゆっくりと捩じ開けはじめた。

ベンチある場所に日常の欠片あり、である。

お薬やサプリメントを口にする際には、今回のお話をちらりと思いだしていただけましたら幸いです。

あ、もちろん、ご夫婦のやり取りではなく、お薬やサプリメントは十分なお水で飲むことという部分でございます。

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抗えない誘惑から「みぞおち」へ。

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雨がしとしとと静かに降っていたその日。

少しだけ窓を開け放しにして換気をした。

換気中であることを忘れたまま過ごしていると、家の中が妙にひんやりしていることに気付き、慌てて窓を閉めた。

そして、布団乾燥機の力によってふんわりと膨らんだ温かいお布団を前にして、大人げないと思いつつボンッと飛び込んだ。

ひんやりとした室内とふんわりと膨らんだ温かいお布団の組み合わせは、ぬっくぬくの部屋で口にするバニラアイスクリームにも似た魅力で、この誘惑にはどうしたって抗えない。

自分の大人げなさをこうやって肯定しながら、しばしの間、みぞおち辺りから体中にじんわりと広がっていく暖かさを堪能した。

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そうそう、「みぞおち」。

ワタクシ、先日はじめて「みぞおち」は「鳩尾」と書くということを知ったのである。

「みぞおち」と手書きする機会は滅多にないけれど、手書きPC入力を問わず「みぞおち」は平仮名だと無意識に思い込んでいた私は、「みぞおち」には漢字があったのかと妙な感想を抱いた。

しかし、どうして鳩の尾なのか。

鳩尾(みぞおち)は、左右の肋骨(あばら骨とも)が胸の中央に向かい合わせたとき、骨の下辺りに骨が無い窪み部分ができるけれど、私たちは、この骨が無い窪み部分のことを鳩尾(みぞおち)と呼んでいる。

この骨が無い部分の形が、扇型のような、鳩の尾のような形に見えることから、鳩尾(みぞおち)と呼ぶ、というようなことが古い漢方医学書に記されているという。

鳩の尾のように見える場所だから鳩尾と書き記すというのであれば、呼び方はもっと他にあったのではないかと思うけれど、呼び方の由来はまた別のところにあった。

日本では、鳩尾(みぞおち)辺りは胃の入り口近くであり、口に入れた水が喉奥を通ってこの場所に落ちてくることから「水落ち(みずおち)」と呼ばれていた場所が、後に「みぞおち」と呼ばれるようになったという説が一般的である。

このような経緯から、この場所を表す漢字と慣れ親しんできた呼び名が合わさり、「鳩尾」と書いて「みぞおち」と呼んでいるのだ。

この場所を見て、鳩の尾を想像できるか否かには個人差があるように思うけれど、言われて見れば、そう見えなくもないように思う。

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そのような背景を持っている鳩尾(みぞおち)なのだけれど、この場所を軽く見てはいけないと感じるのは、時折お世話になる経絡アロマセラピストに触れられたときである。

その道のプロに言わせると、鳩尾(みぞおち)に触れると、ある程度の体の状態がわかるというのだ。

鳩尾(みぞおち)辺りに触れたときに硬さを感じる場合、内臓が疲れていたり、頭が休まっていないとき、イライラが続いているときや食欲が落ちているという。

きっと、そう言われて自分の鳩尾(みぞおち)に触れてみても、多くの方は普段と変わらないと感じるのではないだろうか。

私もそうだったのだけれど、ほぐしていただいた後に触れてみると、その柔らかさから自分の体を随分と雑に扱っていることに驚いたほどの違いがあるのだ。

鳩尾(みぞおち)付近にあるツボを程よい力加減で刺激すると、内臓が元気にを取り戻したり、深く眠ることができて頭がすっきりとしたり、体が休まることで気持ちも落ち着いたりと嬉しい変化が表れるため、何となく疲れている方は、眠る少し前。

仰向けになった状態のときに、鳩尾(みぞおち)のツボを押してみるのも良いように思う。

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ツボの場所は、左右の肋骨(あばら骨とも)が胸の中央に向かい合わせたとき、骨の下辺りの骨が無い窪み部分。

ここに親指以外の両方の指先を軽く突き刺すようなイメージで立てて、息を吐きながら優しく、ゆっくり押すだけ。

疲れが溜まっていると硬かったり、違和感を覚えたりすることもあるので、そのような時は無理をせずにツボの場所を手のひらで摩ったり、温めるイメージで手のひらを乗せて置くだけでもいいのだそう。

たったそれだけで?と思ってしまうけれど、酷使されている体からすれば、たったこれだけのことも嬉しい心遣いになるようだ。

何か思い当たることがあるという方は、お布団の中で鳩尾(みぞおち)付近を労わってあげてみてはいかがでしょう。

そして、そのときに「みぞおち」は「鳩尾」と書くこともチラリと思い出していただけましたら幸いです。

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私たちにとっての「御八つ」は至福寄り。

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町の和菓子屋さんといった雰囲気の小さなお店を見つけた。

大人が2、3人も入れば身動きが取れなくなりそうな、小さなお店である。

店頭に数種類のお饅頭が並べられていたけれど、お店の方の姿は外からは確認できなかったところをみるに、御用の際はお呼びくださいスタイルなのだろう。

お店の方からの店に入るの?入らないの?というプレッシャーを受けずに済む状態をいいことに、少し立ち止まってお店の様子を窺わせていただいた。

もし仮に、お店の奥で、防犯カメラを通してこちらの様子を確認されていたのなら、怪しい人に認定されたに違いない。

そう思ったら急に、変な焦りを感じて足早にその場から立ち去った。

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おまんじゅう専門店なのか、日替わりで和菓子が登場するのか、取り扱い商品の情報は得られなかったけれど、お品書きかと思ったお店の貼り紙には「御八つにいかが?」とあり、確かに和菓子を扱っているということだけ、知ることができた。

「おやつ」は「御八つ」と書くことがある。

とても古い表記で、私は読み物以外の場所でそう書き記されているところを、この日初めて目にしたように思う。

江戸時代辺りまでの日本は、日の出から日没までを昼とし、日没から日の出までを夜とする、ざっくりとした時間割りを使って生活していた。

こうして分けられた昼と夜を更に細かく分け、24時間に十二支を当てはめて数えていた。

今でいう深夜0時(午前0時)から十二支を「子」から順に当てはめていくのだけれど、ひとつの干支に2時間を担当してもらうというイメージだ。

そして、ひとつの干支に担当してもらう2時間を、更に30分ずつの4つのパートに分け、1番目のパートを「一刻」もしくは「一つ時」と呼び、次いで二刻/二つ時、三刻/三つ時、四刻/四つ時と呼ぶことで時刻を表していたのだ。

このような時間割から御八つ(おやつ)を見てみると、御八つ(おやつ)の「八つ」は、今でいう午後2時から4時辺りまでの時間帯のこと。

この時間帯は、子の刻から数えて8番目の時間のことで八の刻(やつどき)と呼ばれており、その八つ刻(やつどき)に食べる食事ということから「御八つ(おやつ)」と呼ばれるようになったと言われている。

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私たちにとって「おやつ」は、お菓子や果物という印象が強いけれど、本来は午後2時から4時辺りまでの時間帯に食べる食事のことで、お菓子や果物に限定されているわけではなく、おにぎりを食べてもラーメンを食べても「御八つ(おやつ)」ということになるのだ。

1日2食が当たり前だった先人たちにとっての「御八つ(おやつ)」は、至福を味わうものというよりは栄養補給、エネルギーチャージの役割が大きかったのだろうけれど、私たちにとっては、至福寄りのものであるように思う。

偶然見つけた小さな和菓子屋さんの「御八つにいかが?」の貼り紙から、そのようなことを思った日。

おやつを召し上がる際に、今回のお話の何かしらをチラリと思い出していただけましたら幸いです。

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ステテコとシュールな時間。

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ダサいという印象を払拭し、機能性とおしゃれさを兼ね備えたものが増えた証拠だろうか。

すれ違った女性たちの会話から「冬用のステテコ」という声が聞こえた。

人に見せるものではないし、色香や艶を求められるアイテムでもないのだから、機能性とおしゃれさがあれば御の字アイテムではあるのだけれど、私はどうしても自分の気分が上がらないことを理由に、手に取らぬままである。

冬用のステテコかとぼんやりと思いながら歩いていると、私がそのように感じるのは、いつだったか、仕事の打ち上げと称された食事会の場で、思わぬ光景を見てしまったからだろうかと遠い日の記憶がじわじわと浮かび上がってきた。

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多忙からくる疲労とひと仕事を終えた安堵感から、お酒を飲み過ぎてしまったのか、普段よりも早く回ってしまったのか、その中の一人が、妙な、いや、ここは「滑稽な」と言っておこう。

滑稽な踊りをステテコ姿で始めてしまったのである。

踊りは、何かしらのハラスメントに引っかかってもおかしくないようなものにも見えたけれど、その場が笑いのみで収まったのはその方の人徳だったように思う。

その、滑稽な踊りの際に発せられていた言葉が「ステテコ、ステテコ、ステテコ」というものだった。

もう、どのようなメロディーだったかまでは記憶にないけれど、動きと言葉が相まって衝撃的かつシュールな時間となった。

私は勝手にステテコを履いているから「ステテコ」と連呼していると思っていたのだけれど、当時隣に居た方に、

あれは一見、妙な踊りに見えるけれど、明治時代に流行ったと言われている「ステテコ踊り」という芸事を彼なりに再現しているのだと思うという解説をいただいたのである。

安易に羽目を外し過ぎているのではなく、そのようなものがあることや背景を知っての一芸だったと知り、酔っ払いだのハラスメントだ何だのと思ってしまったことを少しだけ申し訳なく思ったという出来事である。

その後、私なりに調べてみると、明治時代に半端丈のモモヒキ姿で「ステテコ、ステテコ、ステテコ」と言葉で拍子をとりながら踊る「ステテコ踊り」が流行っていたことや、落語の寄席の場でも取り入れられて話題になっていたことなどが分かった。

ステテコは時代によって、その愛され方が異なるアイテムなのだと感じるとともに、当時のあれこれを思い出しながら、あの方はお元気だろうかと思った日。

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エンドレスサマーから言葉の海へダイヴした日。

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先日、友人から爽やかな水色をした紫陽花の画像が送られてきた。

この友人は、いつだったか私が何気なく漏らした紫陽花が好きだという言葉を記憶に留めておいてくれており、毎年、梅雨の頃になると日常の中で見つけた様々な紫陽花画像を届けてくれるのだ。

年賀状の類のやり取りは一切していないし、会うことも連絡を取り合うこともほとんど無いのだけれど、梅雨の時季に紫陽花の花を介して、お互いの様子を少しだけ報告し合う関係が続いている。

その友人から季節外れに届いた紫陽花画像に一瞬、何かあったのだろうかと不安が過ったけれど、エンドレスサマーという名の、秋にも咲く紫陽花を見つけたことを知らせる連絡だと分かり、胸を撫でおろした。

その後、エンドレスサマーという紫陽花のことを調べてみると、その時季に伸びた枝先に花を咲かせる品種で、紫陽花の花が終わる度に古い花を切り落とすと、剪定した場所に再び花を咲かせるという。

そして、これが梅雨時季から秋まで続くというのだ。

誰が名付け親なのか存じ上げないけれど「エンドレスサマー(終わらない夏)」だなんて、ビターチョコレートのような、大人のほろ苦さを伴った甘い響きである。

が、夏を苦手とする私は、すぐさま近年の酷暑を想像してしまい複雑な思いが交差した。

しかし、エンドレスサマーのような爽やかな水色の紫陽花を目にしたら、あの酷暑も少しくらい和らいだりするのだろうか。

いやいやいやいや……そんな都合の良いことは……ない。

届けられた画面越しのエンドレスサマーを眺めながらそのようなことを思った。

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水色と言えば、数日前に仕事絡みで「水」という言葉を使った表現に多々触れる機会があった。

ひたすらそのような表現に触れ続ける中で感じたことと言えば、日本には「水」を使った美しい表現が多い、ということである。

これはきっと、先人たちが、命の源でもある水を、大切に扱いながら暮らしてきた印なのだろうと思う。

しかし、言葉なのだから美しいものや楽しいことを表現する言葉をポジティブカテゴリーに分類するならば、ネガティブカテゴリーに分類される言葉もある。

例えば、性格などが互いに合わないときに使われる「水と油」。

今までの努力が全て無駄になってしまったときに使われる「水の泡となる」。

その土地の気候や風土が自分にはあわないことを表現する「水が合わない」。

これを「あなたとは性格が合わないね」「あなたの努力は全部無駄になってしまったね」「私には、この土地の諸々が合わなくて嫌」などとストレートに言われたら、

眩暈でクラクラしてしまうか、胃がキリキリと痛み出すか、イライラの虫が騒ぎ出すなど大変な事態を招きかねないけれど、

シチュエーションや話題の詳細によっては、「あなたとは水と油よね」「あなたの努力は水の泡になってしまったね」「私には水が合わなくて」とほんの少しオブラートに包んで表現されたなら、

互いに、もしくはその場に居合わせた者同士、冷静さを完全に失わずに居られるように思う。

日本語の曖昧なものの言い方を、ハッキリしないものの言い方だとか、優柔不断だと言われることがあるけれど、本来は一手先を、いや……、もう二、三手先にまで意識を巡らせたものの言い方なのではないだろうか。

表現にも感じ方にも人の好みがあるので、万国共通の正解など無いけれど、この曖昧さが持つ奥深さはなかなか乙である。

エンドレスサマーを眺めながら言葉の海へダイヴしてしまったけれど、

私個人の思いとしては、夏は程よい辺りで秋へバトンを渡して欲しい……そう思った午後である。

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