幸せのレシピ集

cawaiiとみんなでつくる幸せのレシピ集。皆様の毎日に幸せや歓びや感動が溢れますように。

夏の訪れを知らせる蓮と心豊かな暮らし。

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スタイリッシュな墨色をした鉢から伸びた細い茎の先には、顔を覆ってしまえるくらい大きな葉と、濃い桃色をした蓮(ハス)の花があった。

蓮(ハス)は、夏の訪れと共に咲き始める花である。

その多くは、池の中から茎を伸ばして花を咲かせることで知られているけれど、大きな鉢を池に見立てて自宅で育てている方も、思いのほか多くいらっしゃる。

私が目にするのは、お店の軒先や個人宅の玄関先で育てられている蓮(ハス)、借景である。

そのような関わり方がメインなので、毎年目にしているというわけではないけれど、蓮(ハス)の香りがするお香や蓮を模ったガラス製のキャンドルホルダーなど、気付けば蓮(ハス)モチーフのものを身近なところに置いているからなのか、身近な植物だと感じていたりする。

蓮(ハス)の花に触れる機会が少ないことを疑問に思っていた頃、その原因が蓮(ハス)は早朝に咲き、正午過ぎには閉じてしまう花だからだと知った。

鑑賞可能な時間が限られている植物なので、触れる機会が極端に少ないのである。

しかし、この日のように太陽がてっぺんを過ぎた午後も花が閉じることなく咲いていることがある。

こうしたタイミングで目にできると、とても得したような気分になるのだけれど、正午を過ぎているにも関わらず咲いている蓮(ハス)の花があったときには、少し足を止めて眺めていただきたいのだ。

理由は、その蓮(ハス)が咲いていられるのは、その日が最後で、もういつ散っても不思議ではない状態だからである。

私が目にしている蓮(ハス)の多くは、最期のときがすぐそばまで迫ってきているからなのか、早朝に見るそれよりもひと際生命力に溢れており、見応えある咲きっぷりだ。

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そうそう、蓮(ハス)といえば、お寺の池に咲いていることが多いけれど、健康や長寿を願いながらいただく蓮酒なるものを振る舞ってくださるお寺があると聞く。

私は経験したことがないのだけれど、聞くところによれば、蓮の葉の中央に穴を開けた葉っぱの盃に注ぎ入れられるお神酒を、葉から伸びる茎の先からいただくというもので、

このお酒には、蓮(ハス)の葉と茎の香りが、ほんのりと移っており、この時季ならではのお酒の楽しみ方なのだとか。

もちろん、健康や長寿を願っていただく縁起物、縁起担ぎの有難いお酒なので、がぶがぶと飲むようなものではないけれど、暑い夏も、少し早起きして蓮(ハス)の花を愛でながら蓮酒をいただくなんて、なんと風流なことだろうかと思う。

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そばにあるものを上手に、丁寧に使うことは、暮らしを心豊かにする知恵でもあり、丁寧に暮らすということのヒントに繋がるようにも思う。

今すぐには叶えることができない蓮酒だけれど、いつの日かという夢を持ちつつ、今の私は蓮(ハス)の根っこであるレンコンを味わいながら健康を願ってみようかと思う。

蓮(ハス)やレンコンに触れる機会がありました折には、今回のお話の何かしらをちらりと思い出していただけましたら幸いです。

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やかんや水筒で食中毒が起こるワケ。

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先日、レジ前で現金を取り出した。

慣れていたはずの動作に妙な違和感を覚え、いつの間にか、お財布からお金を取り出す機会が減っていることを自覚した。

久しぶりに受け取った小銭をお財布に戻しいれたとき、ピッカピカに光る10円玉が目に留まった。

新しいものには新しいものにしかない良さがあり、年を重ねたものには重ねたものにしか出せない良さや味があるけれど、「たった今、開封されたばかりの新しい硬貨です」と言いだしそうなその輝きに、ちょっとだけテンションが上がった。

10円玉の原材料は銅だけれど、先日、銅が溶けだしたことが原因で起きる食中毒の症状を訴えた高齢者の方々のことがニュースに取り上げられていた。

気温が跳ね上がる夏に見聞きする話題でもあるので、この機会にシェアさせていただければと思います。

ご興味ありましたら、ワタクシ柊希の脳内整理も兼ねておりますがお付き合いくださいませ。

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このニュース、とある高齢者福祉施設で起きた出来事です。

気温が上がり汗をかくと体内の水分が不足するだけでなく、体の機能を維持するためのビタミンやミネラルも汗と一緒に体外へ出てしまうため、水分と一緒にビタミンやミネラルを補う必要が出てきます。

それらを手っ取り早く補給するために、この高齢者福祉施設ではスポーツドリンクを作って、高齢者の方々に飲んでいただいたのだそう。

しかし、このスポーツドリンクを飲んだ方が次々に、吐き気や下痢などの食中毒の症状を訴えたといいます。

この高齢者施設ではステンレス製のやかんでスポーツドリンクを作ったのか、スポーツドリンクをやかんに移し替えていたのかは分からないのですが、やかんを使って注いでいたようなのです。

スポーツドリンクはどれも似たり寄ったりのように見えますけれど、成分の割合は商品によってさ様々です。

一見、アルカリ性のものが多いように思いますけれど、全体のバランスをみるとアルカリ性であるというだけで、成分をみると疲労回復に働いてくれるクエン酸や、その他の酸性成分が含まれていることも。

そうなると、やかんの傷口や劣化部分、やかんに付着した水垢がスポーツドリンクの酸性成分と化学反応を起こし、金属がスポーツドリンク内に溶けだして、このニュースのような食中毒を引き起こすことがあります。

これは、やかん以外にもステンレス製の水筒などでも起こりますので、水筒にスポーツドリンクを入れて学校へ行くお子様も注意が必要かと思います。

中には、スポーツドリンクは飲まないから大丈夫という方もいらっしゃいますが、酸性ということはフルーツジュースやビタミンウォーターなども物によっては当てはまります。

食中毒と言えば、腐敗からくる食中毒を警戒しますから、水筒などは念入りに洗うかと思うのですが、洗い方を間違えてしまいますと、傷がついたり、必要なコーティングを剥がしてしまったりと、食中毒に繋がる原因を作ることになります。

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ですから、やかんや水筒を使っている方は、この機会にもう一度、取り扱い方法や内部の傷や劣化、水垢の有無などを確認してみてはいかがでしょうか。

そして、ペットボトルで場所を取りたくない、ゴミを増やしたくないという理由で、粉末タイプのスポーツドリンクを購入して作る方は、安全な容器を使って「作る、保存する、持ち運ぶ、飲む」を行ってくださいませ。

更に、スポーツドリンクや酸性の飲み物、ジュースやビタミンウォーターを、やかんや水筒に入れる際には一度立ち止まって、やかんや水筒の素材をご確認ください。

暑くなり、水分補給をする機会も増えてきましたので、水部補給の参考にしていただけましたら幸いです。

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夏の知らせが届いた日。

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梅雨真っ只中だと思っていたその日、雨が止んでいる僅かな時を狙ってのことか、我が家にも今年の蝉、第一号がやってきた。

目覚めの悪い体をグイッと起こしてベッドの上でぼーっとしていると、すぐ近くで鳴く蝉の声がダイレクトに脳に届いた。

わっ、ついに夏が来た。

そう思った瞬間、体中のスイッチがカチカチカチッと入れられていくような感覚と共に完全に目が覚めた。

あまりにも近くで鳴いているものだから、ブラインドをたくし上げると、網戸に捕まっている蝉と窓越しに対面した。

起きがけに見る映像としてはインパクトが強かったけれど、その網戸には蝉の他にもトンボの珍客が、細い足を器用に網戸にひっかけて一息ついていた。

トンボの体は、緑色を出来る限り黒くしたような、黒に艶やかな緑色を混ぜ込んだような色をしており、羽は黒を限りなく薄くして彩度を上げたような透明感の表面を、ほんのりとした虹色がいた。

その美しさは、美術品にも勝るとも劣らないもので、虫が苦手な私もつい魅了されてしまった。

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トンボにはご先祖様が乗っているとか、ご先祖様たちが姿を変えたものだとか、神様の使いだ、ご先祖様の使いだなど、様々な言い伝えがある。

特に、お盆の時季に見られるトンボは、このような言い伝えを持つものが多く、子孫の幸せと秋の収穫を守っていることを伝えて山へ帰っていくという話がある。

他にも先人たちがトンボを大切にしていたことが分かる言葉に「あきつ」というものがある。

これは、トンボを表す古い言葉で「あきつ」以外にも「あきづ」「秋津」などと記されたりもするのだけれど、古い和歌の中では、羽衣のような透き通った着物を表現する際に、トンボの美しい羽根と重ね合わせて「あきつは」という言葉が使われていたりもする。

トンボという言葉との接点が無いように思う「あきつ」という響きだけれど、「あきつ」という言葉そのものは秋の虫という意味があると知ると合点がいくのではないだろうか。

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いつも外国での話題を持ち出してしまうけれど、ヨーロッパでは、虫の鳴き声を聞いて季節を感じたり、風情を感じるといったことは少なく、どちらかと言えば虫の鳴き声は雑音の一種として捉えられる節がある。

これは、その土地の気候や生活環境、時代背景、その他諸々が合わさって出来上がった文化がそうだというだけのことなのだけれど、ある日、知り合いのお宅の少年が小さな嘘をついたことがあったのだ。

すると、私の知り合いは、嘘をついた子どもに言ったのだ。

「嘘をつくと悪魔の針を持ったトンボがやってきて、その嘘をついた口を縫い合わせてしまうわよ」と。

横で聞いていた私は、脳内の直訳が間違っているのではないかと思い、何度も知り合いの言葉を脳内再生した後、ヨーロッパでトンボは、そのような立ち位置なのだと知ったのだ。

昆虫は吉凶のどちらの象徴としてもみられるため、これも驚くようなことではない。

しかし、日本人が昆虫に対して優しい眼差しを向けられるのは、蝉の鳴き声を聞けば夏の訪れを、トンボを目にするようになれば晩夏や初秋を感じ、鈴虫の音色を耳にすれば本格的な秋を、といった具合に季節の移り変わりを知らせてくれる存在として、共に過ごしてきたであるように思う。

どちらが良い悪いではないのだけれど、私自身は、自然の美しさに触れ、虫の存在を大切に扱い共存してきた先人たちの感性を誇りに思う。

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そのようなことを思っていると、ザーッという音とともに再び激しい雨が降りだし、雨粒が外の景色をぼかし始めた。

鳴くのを止めた立派な蝉とスタイリッシュなフォルムのトンボに、夏を知らせにきてくれたお礼の気持ちを込めてささやかな軒下を貸し出して寝室を出た。

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紫陽花のトンボ玉と昼下がり。

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友人が贈ってくれたお香が最後の1本になった。

気分や場所を選ばない素敵な香りが気に入っていたので、最後の1本をここで使ってしまうか否か迷ったけれど、大事にしすぎて本来の香りを楽しめなくなってしまったのでは本末転倒。

そう思って、最後の1本に火を点けた。

香立てとして使っているのはガラス製のトンボ玉で、ガラス玉の中には紫色の紫陽花が入っているお気に入りだ。

旅先で立ち寄った雑貨店で買ったものか、神社やお寺で買ったものだったか、記憶も合間になってしまうほど長い年月を共に過ごしているアイテムだ。

とても小さなものなのだけれど、無くなることも割れることもないところを見るに、それだけの時間を共にするご縁があったのだろうと思う。

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この香立てと同じくらい気に入っている眼鏡があった。

裸眼視力は言うのが恥ずかしくなるくらい良い値を叩き出してしまうのだけれど、視力と眼精疲労は別物のようで、私の仕事道具の必需品である目薬同様にアイケアアイテムとして追加していた眼鏡だ。

せっかく購入するのだから、外出時などもファッションの一部としてアクセサリー感覚で使うことができるようなものをと奮発したのだけれど、3カ月ほどで姿を消してしまったのである。

しかも自宅内で、である。

無くなったと気づいた日に大捜索を行ったけれど見当たらず、神隠しにあったような気分になった。

だけれども、このようなときに慌てていては見えるものも見えないし、見つかるものも見つからないと思い、きっと何処かに置き忘れているだけだろう、直ぐに出てくるだろう、探し物は忘れた頃に見つかるものだと思い直してデンッと構えることにした。

しかし、数日経っても出てくる気配も見つかる気配もない。

少しドキドキしながらも、無いなら無いなりにと目薬のみのアイケアで誤魔化して、再会の時を待った。

すっかり目薬一筋のアイケアに逆戻りし、気付けば更に数か月が経過していた。

もう、このままでもいいのではないだろうかとも思ったけれど、最後にもう一度だけ家中の大捜索をした後、今の新しい相棒を私のアイセーバーとして迎え入れた。

あんなにも気に入っていたのにと、一つ前の眼鏡のデザインを思い出すこともあるのだけれど、縁の深さは、自分の思いの深さとは関係がないところで、深まったり、薄まったり、繋がったり、切れたりするようだ。

そして、まだ心のどこかで、あの眼鏡は家のどこかに潜んでいて、そのうちひょっこり顔を出すのではないだろうかと思っていたりもする。

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そのようなことを思い出しながら、心地良いお香の香りを吸い込んだ。

何気なく目に入ったお気に入りの紫陽花の香立てが、より愛らしい香立てに見えた昼下がりである。

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4つの力を手に宝探しのゲームにトライする夏。

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そろそろ青の景色も見納めだ。

そう感じながら眺めたそこには、色褪せた青い紫陽花があった。

どの季節に何色の花が咲いたって構わないのだけれど、初夏辺りから梅雨が明ける頃までの間は青い色をした花が多く咲くように思う。

そして、青の季節の終わりを告げるかのような、色褪せた青い紫陽花を目にする機会が増えてくると、梅雨明けがすぐそばまで来ているサイン。

そして、それは同時に厳しい夏の訪れを知らせるサインでもあり、私は静かに身構えるのだ。

私はまだ、今年の蝉の鳴き声を聞いてはいないけれど、既に鳴いているという声を既にあちらこちらで見聞きするものだから、私の耳にもそろそろ届く頃だろう。

そうとくれば、夏の季語であり飲む点滴としてお馴染みの甘酒を用意するタイミングでもある。

私は微量のアルコールを含む酒粕から造る甘酒ではなく、ノンアルコールの米麹から造られる甘酒が好みで、夏場はこれをおやつ代わりに準備する。

寝不足で体内時計が狂ってしまいそうな朝は、これをグイッと飲めば、栄養チャージと疲労回復、体内時計の正常化が一度に完了するカラダレスキュードリンクなのだ。

また、しっかりとした甘さを感じられるのに砂糖無添加という点も嬉しく、夏に甘いものを欲したらキンキンに冷やしたものや、軽く凍らせたシャーベット状のものを楽しんでいる。

最近は小ぶりな飲み切りサイズのものも多々出回っているので、好みのものがあれば、緊急時の栄養ドリンクのひとつとして備蓄しておいても良いように思う。

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夏といえば、「暑い、熱い」の「あつ」が転じて「なつ(夏)」と呼ばれるようになったという説がある。

腑に落ちるような落ちないような、曖昧さは否めないけれど、自然の草木も、動物も、人も開放的にのびのびと動き回る季節であることに変わりはないようだ。

今年は、その機会や場所を草木や動物たちに譲るような夏になりそうだけれども、時に譲り合いも必要だということで、これまで通りにいかない不便さやもどかしさの中から、大小様々なキラリと光る楽しみを見つけてみたいと思う。

さながら、人にしかない想像力や発想力、思考力や行動力を持って、難易度が高い宝探しのゲームにトライするような夏である。

そのようなことに思考を飛ばしながら歩いていると、今度は色褪せたピンク色の紫陽花があった。

やはり、猛暑はすぐそこまで……。

夏を猛暑と言い換えてしまう辺り、夏に対する苦手意識たっぷりだけど、涼しくて快適な夏をベースに私らしい夏を今年バージョンで楽しみたい。

皆様も自分らしい夏を心残り無きように♪

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欲望に忠実になった夜と魔法のスプーン。

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しっかりと夕食を食べたばかりだというのに、お腹の虫が「デザートはまだかい?」と騒ぎ始めた。

私の身体は、この時間のデザートを口にしない方が通常の数割増しで整うのだけれど……と、遅い時間を指している時計を見て思ったけれど、その日は、普段よりも歩いて疲れていたこともあり、プチご褒美のような気分で冷凍庫に忍ばせていたアイスクリームを手に取った。

ここで、うだうだと「食べない方がいいのだけれど」などと思っていると、せっかくのアイスクリームもデザートタイムも台無しになってしまうから、食べると決めたら気になるあれやこれやは潔くスルー。

どうしても気になるのであれば、楽しんだ後に、出来るだけ無かった事にする栄養の仕組みを使って対処するというのが柊希流である。

そう言えば、昨年の秋頃にアイスクリームを美味しく食べるためのスプーンというものを頻繁にみかけたことを思い出した。

パッケージこそ各々の個性が出ていたけれどスプーンそのものは、形状、素材ともに大差はなく、どのような意味でアイスクリームが美味しくなるのだろうかと、小さな好奇心が芽生えた。

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アイスクリームの美味しさが際立つ温度は-8℃から-14℃なのだとか。

ものによっては-14℃が美味しく食べられる温度だと言われているようだけれど、カチカチに凍った状態ではスプーンが入っていかない。

特に、アイスクリーム内に含まれる空気の量を極力抑えた、食べ応えあるアイスクリームの場合、このような状態であることが多く、程よい柔らかさに溶けるまで待つ必要がある。

この待ち時間も至福の時だと捉えることもできるけれど、無理をして手の平の熱でカップごと温めて早く食べようとすれば、アイスクリームの溶け方に差が生まれて、本来の美味しさからは遠ざかってしまうという。

そこで、熱を伝える特徴を持ったアルミニウムや銅と、熱いものから冷たいものへ移る「熱」の性質をマッチングさせて作られたスプーンが、最近よく目にするアイスクリームを美味しく食べるスプーンである。

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アイスクリームをこよなく愛する私の友人は、このスプーンを大絶賛しており、それならば私も試してみるかと思った。

しかし……だ。

アイスクリームを頻繁に食べない私が持っていても宝の持ち腐れだし、魔法のスプーンのおかげでアイスクリームを口にする回数が増し、気になり事が増えるのも考えものだと思い直し、今のところは見送っている。

その日は、まだ見ぬアイスクリームを美味しく食べるスプーンを思い出しながら、ブルーベリースースがたっぷりかけられた甘酸っぱいそれを口に運んだ。

疲れで熱を帯びている体が、クールダウンしていく感覚はとても心地良く、そこに、デザートを何となく口にするときとは比べ物にならないほどの満足度と口福度も相まって、幸せなデザートタイムとなった。

スプーンの話題になってしまいましたけれど、自分を労わる日や甘やかす日は、余計なことを考えず、目の前の時間をご堪能くださいませ。

ささやかな時間であったとしても、翌日の大きなエネルギーをチャージできるように思います。

本日も、ここへ足を運んでくださった皆様と、皆様の大切な方々が笑顔でありますように☆彡

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回さなかったターンテーブル。

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バランスボールと戯れながら、どこでも好きなお店で自由に食事をしていいと言われたら、今の私は何処へ行くだろうかと思った。

行きたいところは多々あるけれど、店内環境を選別理由に加えている自分に少し驚いた。

体勢を変えて想像を仕切り直すと、今度は飲茶のお店が浮かび上がった。

みんなで円卓を囲み、熱々の飲茶をいただきながらワイワイお喋りを楽しむあの感じである。

時折、向かい側に座っている人とターンテーブルを回すタイミングが妙に合ってしまったりして、「どうぞ、どうぞ」「お先にどうぞ」なんてやり取りも、今思えば乙なやり取りだ。

いつの間にか、それらが随分と懐かしい食事スタイルになってしまったと感じる気持ちが「飲茶」を食べに行きたい気分を推したように思う。

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外国に暮らし始めて数カ月が経った頃、現地生活が長いという日本人にすすめられた中華料理店へ足を運んだことがある。

前評判通りの本格的な美味しい中華料理を堪能できたことが嬉しくて、後日改めて現地の友人を連れていった。

ターンテーブルを囲むスタイルは異国情緒や異国文化を感じることができるだろうし、シェアして食べる中華料理は食の好みに対しても融通が利くのでもってこいだと思ったのだ。

しかし、この日、私はターンテーブルを回すことなく食事を終えたのである。

アジア圏では料理を取り分けて食べるということを抵抗なく行うけれど、ヨーロッパでは自宅での食事を除き一人一皿というスタイルが暗黙のルール。

だから、各々が食べたいメニューを選び、その一品を一人で黙々と食べたのだ。

中華料理は大勢でシェアして楽しむものだと説明してみたけれど、上手く伝わらなかったのか、受け入れられなかったのか、ターンテーブル上には、未使用の取り皿が使われることなく積み上げられていた。

化粧室へ立った際に店員に、取り皿を使わぬまま積み上げていることを詫びると、ここでは珍しくないから気にするなと返ってきた。

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日本でも見かけることがある。

居酒屋のような場所で食事をしている外国人観光客のテーブルへ目を向けると、同じメニューが3つも4つも乗っていたりする。

あれは、それを食べたいと思った人数分の皿である。

最近は、日本食や中華料理の文化も広く知られるようになり、異国料理の店へ足を踏み入れたなら、その文化に従うという柔軟な方も増えたようだけれど、シェアして食べることを苦手に感じる方はまだまだ多いようだ。

確かに、これを食べたいと思って注文したものを満足に食べられなかったら残念な気持ちになるけれど、慣れ親しんだ文化によって常識もお作法も感じることも様々だ。

日本人は、その辺りの柔軟性が高いのだろう。

シェアする食べ方、シェアしない食べ方の双方を使い分けられるように思う。

しかし、自分が食べたいものを各々に食べているときに、「一口ちょうだい」と言われるシチュエーションが苦手だと言う方がいることを思うと、彼らの行動も大差はあれど、それほど不自然ではないのかもしれない。

そうそう、中華料理の話である。

当時の自分が何を注文したのか肝心な部分は忘れてしまったけれど、中華料理を食べる円卓で一品だけに集中したのは、あの時が最初で最後で、しばらくこのメニューは要らない……と感じたことは今でも記憶に残っている。

外食をするタイミングを何となく見失っているのだけれど、近場でトライして、自分が思う安全策を体験をもとに考えてみようかと、バランスボールの上で思う午後である。

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自分の存在感の薄さと彼らの日常を案じた日。

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我が家のベランダには大小様々な鳥が遊びに来る。

特段、鳥に好かれるようなベランダではないと思うのだけれど、彼らは、お喋りの場として、追いかけっこの場、かくれんぼの場、止まり木代わりの休憩場として利用していくのだ。

何処へ引越をしても同じことが起こるため、

私が好む間取りやベランダの方角がそうさせるのか、寛ぎスペースのレイアウトがそうさせるのか、何かしらの理由がありそうなのだけれど、見つけられずにいる。

そう言えば、実家の庭にも度々鳥たちが羽を休めに来ていた。

あまりにも色々な種類の鳥が遊びにくるため、自宅のリビングには、いつからか小さな望遠鏡と野鳥図鑑が置かれるようになった。

そして、鳥が遊びにくると家の中から小さな望遠鏡でのぞき、野鳥図鑑を広げて鳥の名を調べるのである。

てっきり、通りすがりの鳥たちだと思っていたのだけれど、父が亡くなった後はパタリと来なくなったことから、母は、鳥たちは父に会いに来ていたのかもしれないと冗談交じりに言っていた。

最近、その時の会話を思い出し、父の何かを私が引き継いでいるのだろうかと遊びに来た小鳥を眺めながら思ったけれど、その真意もまた見つけられぬままである。

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その日もガーデンテーブルの上でお喋りをしている鳥たちがいたのだけれど、本を虫干ししたくて室内から外の様子を窺っていた。

7月は虫干しに適した時期だけれど、中国には7月になると書物を開いて虫干しをする風習があったそうで、ここから7月を「書物(文)を開く月」と表現し、後に文月(ふみづき)という7月の異名が生まれたという説がある。

これに倣ってということではないのだけれど、その日の晴れ間を逃したくない気持ちが勝り、数冊の本を手にベランダへ出た。

がしかし、である。

飛び立ってしまうだろうという私の予想に反して、彼らは私の存在を気にする様子も飛び立つ素振りも見せず、しばらく談笑し続けたのだ。

鳥の中には、鳩のように縄張り争いを繰り広げなければならない相手もいるけれど、そうでないならば、しばしの間だけ空間を共有するくらいは良いだろうと思いながら本を広げ置いて室内に戻ったけれど、自分の存在感の薄さと彼らの厳しいであろう日常を案じたひとコマである。

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夏のパイナップル、冬の大根と言えば何?

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自由でありたいけれど、ときに自由は不自由である。

そう感じたのは、洗濯機を買い替えなくてはと思い、ネットで目星を付けたものの自分の審美眼に自身が持てず家電売り場を見回っていたときのことだ。

見比べてみようと思い足を運んだけれど、あまりの豊富さに眩暈がして、その場を数分で後にして初志貫徹。

目星を付けていたそれを購入した。

某日は、その新しい洗濯機が届くワクワクする日だったのだけれど、同時に4回の引越しを共にした暮らしの相棒との別れの日でもであった。

別れの時間が迫るギリギリまで働かせていることを申し訳なく思いながら、洗濯物を細かく洗い分ける私の癖に付き合ってくれたことに感謝し、動くそれの外側を拭きあげた。

相棒との別れは呆気ないもので、手際の良い作業員の方によって、あっという間に玄関の外へと運び出されていった。

このようなご時世だからだろう、必要最小限の作業と会話のもと新しい相棒が運び込まれたのだけれど、作業員の方が途中、小走りで玄関の外へ出て行った。

何事かと思い様子を窺っていると、「咳が出てしまいそうだったので外へ出たんですけど、大丈夫でした」と言いながら笑顔で戻ってきた。

様々なことを感じ思う中、私の口から出た言葉は、全てをひっくるめた「お心配り、ありがとうございます」だった。

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咳と言えば、ここ数か月ですっかり「飛沫感染のもと」といった印象が強まったけれど、咳が出る理由は様々だ。

そして、この咳は思う以上に体力を奪うように思う。

このような時、薬局に行けば咳に効く薬やシロップ、トローチなど様々なアイテムが売られているのだけれど、日本には、未病の範疇であれば「はちみつ大根」や「大根湯」という江戸時代からの知恵がある。

しかし、これから数か月の気温が高くなる時季は、季節のフルーツ、パイナップルを咳止めに使ってみてはいかがだろうか。

咳止めも様々で夏のパイナップル、冬の大根である。

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パイナップルは、消化を促進したり、お肉などの食材を柔らかくするなどの働きが注目されているけれど、

これらに働いてくれるパイナップルに含まれている酵素は、パイナップルも咳止めや喉の傷みや炎症を緩和させる働きを持つとも言われている。

他にも免疫力を上げてくれるビタミンCをはじめとするビタミン類とミネラル、体の熱を下げながら疲労を緩和してくれる栄養素などもギュッと詰まっているため、夏の咳止めには旬のパイナップルを使うのも手なのである。

ジュースやカットフルーツなどの手軽な状態のもので十分なので、わざわざパイナップルを丸ごと買わなくて済むところも嬉しいところだ。

ただ、ひとつだけ注意する点がある。

それは、咳止めとしてパイナップルジュースを口にする場合は、60度以上の熱を加えたものは酵素が失われてしまっているので、濃縮還元タイプではなくストレートタイプのものを選ぶということ。

アレルギーやお嫌いでなければ、

今年の夏は、美味しいパイナップルで咳止め、免疫力アップ、夏風邪や夏バテ予防、疲労回復を丸ごと狙ってみてはいかがでしょうか。

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新しい関係との程よい距離感。

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今年はタオルケットを新調しようと春先から決めていた。

出来るだけワクワクを楽しみたくて、ネットで片っ端から物色した。

色々と眺めているうちにタオルケットではなくガーゼケットなるものに興味が湧き、試してみることにした。

ガーゼケットと一口に言っても素材や構造は様々で、暇を見つけては物色する日が続いた。

数ある商品の中からコレだと思うものを選んだ。

世の中が大変な時期だったけれど、注文から1週間ほどで届いたことに感謝するやら、感心するやらしながら封を開けた。

そして、仲間入りしたばかりのそれから不要なものを取り除くため、はやる気持ちを抑え込み洗濯をした。

洗う前のシャリッとした硬めのハリを持つ生地質感に変化は起きず、ガーゼケットとはこのようなものなのかと思った。

正直なことを言えば、もっとフワッとしたしなやかさを期待していたものだから、期待外れだったと思いかけていたのだけれど、使う前からそう思うのが嫌で、そう思う一歩手前のところで私の想像違いだったのだと、気持ちを切り替えた。

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それから10日ほどが経ち、硬めの生地質感にも慣れつつあった頃である。

急に、あのシャリッとした生地質感が絶妙な肌触りの、しなやかな生地質感に変わったのである。

何事だろうかと、思わず何度もガーゼケットを抱きしめ直して感触を確かめた。

人をダメにするクッションというものがあるけれど、人をダメにするガーゼケットといった肌触りである。

それからというもの、私はそのガーゼケットの虜で、就寝時だけでなく、クーラーが効きまくっているリビングで寛ぐ折にも、そばに置いて包まっている。

注文前に素材や構造などにも目を通したけれど、どうして、こんなにも心地よい肌触りをしているのだろうかと、改めてガーゼケットを観察した。

間違いなくプロの技やプロによる拘りや手のかけ方などが合わさってのことなのだけれど、心地良さの要因のひとつは、肌に付かず離れずの程よい距離感を常にキープする構造ではないかと素人ながらに思った。

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適度な距離感を互いにキープし続ける大切さは、それなりに理解しているつもりだけれど、これは思いのほか難しいものである。

それを、これほどにもサラリとやってのけるとは、このガーゼケット、強者だ。

ソファでガーゼケットに包まって、そのようなことを思い巡らせていたのだけれど、このガーゼケットもはじめは想像違いだったことを思い出した。

しかし、今は至福タイムのお供として全幅の信頼を置いている。

はじめから馴染み合うこともあるけれど、そうではないことも多々あって。

だから、諦めず、焦らず、ゆっくりと距離を縮めたり取ったりすることを繰り返す中で、付かず離れずの絶妙な距離感が出来上がり、気が付けば馴染み合っていたなんてところに着地する。

もちろん、全てがそのような場所に辿り着くことができるという保証はないのだけれど、物にも人にもそれなりの時間は必要なのだろう。

私とガーゼケットの関係は、どこまで親密な間柄に育つのか。

関係が始まったばかりの夏の相棒に包まりながら、そのようなことを思う穏やかな午後である。

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